(英語)私が19歳でカピオラニ短大に通っていた頃、父の容体が悪化しました。父は5、6ヶ月入院していました。当時父は、処方されていた様々な薬が原因で意識がかなり朦朧とし、時間の感覚もなく、何も分からない状態でした。私は中学1年の頃から父の代わりに働くこともあったので、表面的には仕事を理解していましたが、中身は分かっていませんでした。給与簿を付けることなどはできましたが、事業の見積りの作成や施行計画図を読むことはできませんでした。でも、父は私を呼び、「病院へ連れて行ってくれ。会社は明日からおまえに任せる」と言いました。私はまだ19歳でしたが、やらなければなりませんでした。
私は、父の競合相手だった、ボブ・カヤやエディ・ナガオから施行計画図の読み方を教わるなど、かなり助けてもらっていました。図面の読み方に関しては学校へ通い、企業法なども学びました。でも、最初の2年間は、自分が何をしているのか、基本的に何も分かっていませんでした。業界ならではの言葉遣いがあって、それがすごく難しかったです。 例えば、「4,000リニアフィートのクラウン・モールディングが必要だ」と大工さんに言われて、業者から4,000ボルトフィート仕入れたことがありました。クラウン・モールディングは、1つ1インチですが、ボルトフィートは、12インチです。なので、12かける4,000で約50,000ボルトフィートでした。それで私は、トラック一台分もの積み荷を運び入れたのですが、その場に居た人たちは皆笑いながら、「何をやってるんだ?」と言って、必要な分だけを取り、残りは返してくるよう言いました。買った店にほとんどそのまま返品に行くのはとても恥ずかしかったですね。
それは、私が乗り越えるべき学習曲線だったわけです。その頃の私は本当によく助けてもらっていました。当時の業者間の競合関係は、今とはちょっと違っていたんですね。
日付: 2006年6月1日
場所: 米国、ハワイ州
Interviewer: アケミ・キクムラ・ヤノ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター