天野芳太郎の日本でのビジネス
関東大震災のあと、なんかちょっと仕事して。関東大震災にあった時に、お父さんが、病気なさって。でも頑丈な大きなお父さんだったから、何年か生き延びられたですけども。その後、あの人、天野・・・お饅頭の、何て言うお店だった?何か天野・・・なんかね、横浜でお饅頭屋さんやるんですよ。そう、お饅頭屋やるのもね、すごく徹底して、一番いい粉とか、一番いい小豆だとか、もうそうやって、お饅頭作って、専門家を連れてきて。で、あの人も自分で練ったんですって。
で、いろんなことやって、何かすごく評判な。またその人のお店の運営が、おもしろくてね。何かあの、お店も小奇麗なお店ができて、それで(一回に)あんまりたくさん作らなくて、フレッシュなのを日に3回ぐらい作ったらしいです。そうすると、列ができて、あの、もうすぐっていう時に終わったり。そうすると、また必ずその後の、あの、あれに来るんだそうです。 そうして、あの、何て言いますか、自分の、あのおまんじゅうの長さを、こう線路で計ると、とうとう、東京の、横浜の駅から出発して、東京の何とかって言う駅まで着くってね。着くようになったって。届いたって言うんですよ。だから、横浜の市民の、何て言うんですか、義務は、それをまた横浜へ引き返すためだって言うので。宣伝がおもしろいって言うので、わんわん、みんなわんさこわんさこ押しかけて、買って下さったんですって。全部、大きな。だから、銀行何とか、南米何とかっていう大きな銀行もあったですけども、そこのおやつが全部、天野屋・・何かおまんじゅう屋さんから出たんだそうです。すごくとんちのある人だった。
日付: 2007年4月18日
場所: ペルー、リマ市
インタビュアー: アン・カネコ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
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