アメリカ人と日本人の連絡役(英語)

書き起こし文章は右記の言語でご覧になれます:

(英語) 高等専門学校を卒業したときに、建設会社への就職は決まっていました。ある日会社本部に行って、業務報告をしていましたら、会社の人に「四国のダム建設の現場に行かないか」と言われました。私の兄が途中で割って入ってきて、私は英語を話すから、アメリカ軍とやり取りができるんだ、と言うんですね。そしたらその会社の社長は、私のことを気に入って、「そうか、じゃあお前はここに残れ」と言いました。私は社長の期待に応えることができたのです。 というのも、その建設会社は中国、朝鮮半島、満州にも支部を持っていたのですが、全てを撤退させ、それに関わる支払い義務もあって、社長は仕事を探していたんですね。会社に仕事が無くてはそれもできませんし、政府や地方自治体の仕事の受注は難しく、お金に困っていたんです。

ある日、私は東京にある、マッカーサーの総司令部に行ってみたのです。そこでたまたま会った中佐と話をしていたら、彼が「仕事を探しているのか?」と言うんですね。優秀な通訳を探しているところだったようです。私は「はい、探しています」と言ったら、「すぐにでも働いてもらえるよ」と言うんですね。私は、「そうじゃないんです。私は建設会社で働いていて、会社として何か請け負える仕事がないか探しているのです」と説明をしました。 当時GHQ本部に居たこの中佐は、豊岡市の旧陸軍航空士官学校跡地の滑走路建設の担当者でした。土地はあったのですが、そこは草の生えた滑走路だったので、アメリカ軍はコンクリートの滑走路にしたがっていたのです。そしてその建設ができる業者を探していたのでした。私は会社の事も、会社の技能についても何も知らなかったので、中佐には、「明日まで待ってもらえますか?」と言って、「会社の技師達にこの返事をさせますから」と告げました。

私は急いで会社本部まで戻り、社長に報告しました。社長は話をまとめると、「誰それを見付けてきてくれ」、「誰それを呼んで来い」「誰と誰を連れて来てくれ」と言って、一日でその人達を集合させました。そして私達はGHQ本部へ赴いたんです。話を聞くと、アメリカ軍は、豊岡市の旧陸軍航空士官学校跡地に、飛行場を建設したがっていたのでした。

日付: 2005年10月29日
場所: カナダ、トロント
Interviewer: ノーム・イブキ
Contributed by: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館

business construction Post-World War II

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