ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/801/

見よう見真似で物にした仕事

バシア(たらい)の底替え。ご存知ですか?バシアって。あの底替えをですね、やったんですけど、またやったことは見たことない。そんでクロンボのおばさんがですね、その大きな、こんな大きなバシア持って来ましてね。で、それを底変えてくれと。年なもんですから、それを切って、それからEstanho(鉛)でSoldei(ハンダ付け)していた。そしたらあくる日、怒ってきたんですわ。「お前が直したやつは、わしが中入ったら底抜けて、風邪引いた。」ちゅうて怒って来ましてね。で、それじゃぁもういっぺん直すから言って、しかたないから近所のそういうFunileiro(ブリキ屋)の人のところへ、ちょっと横目でにらんでみましたらね、こうエンカッシャ Encaixava(はめ込み)してるんですね。カシャン、曲げて、カシャンカシャン。こんなだったらわけない、わしもそうしよ。そして覚えたんです。だから私は何にも知らん仕事をみんなこうやってきましてね。で、あの何とか物にしてきたんです。


ビジネス ブラジル 経営 経済学

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

西村俊治氏は、1932年21歳の時、日本の経済状況をみかね、新天地を求めブラジルへ移住を決意しました。移住当初は、持ち前の忍耐を持って耕地で働きました。まもなくして1年間学校へ通うのに十分な資金もたまり、サンパウロ市へ上京しました。その後、ブラジルの工場を転々とし、最終的にはポンペイアへ落ち着きました。

西村氏は、生活のためさまざまな職業を経験・挑戦してきました。農機具の特許取得がきっかけに、JACTOグループを創設しました。当時のブラジルは海外からの農機具に頼っていましたが、輸入品よりも質のよいものを提供しようと、農機具の開発に力を注いできました。JACTOグループがここまで大きくなったのは、ブラジルのおかげと、職業訓練学校を設立しました。農機具の開発だけでなく、それをうまく使える技術者を育てることが、国の発展の第一歩であるとし、農業専門家を育てるのに力を注いできました。(2007年6月22日)

カズオ・フナイ

ビジネスでの苦い経験

一世実業家(1900-2005)

カズオ・フナイ

東京の会社が焼失

一世実業家(1900-2005)

サム・ナイトウ

戦後に始めた輸入業(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

ビル・ハシズメ

父による農業経営の成功(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

アメリカ人と日本人の連絡役(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

バート・A・コバヤシ

19歳で家族経営に携わる(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

バート・A・コバヤシ

仕事における体・心・精神の倫理(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

木下正夫

『負け組み 』-日本敗戦認識運動

負け組みの主要メンバー

木下正夫

宗教心へのきっかけ

負け組みの主要メンバー

木下正夫

ブラジル奥地の殖民地での体験

負け組みの主要メンバー

児玉良一

世界を見るためにブラジルへ

笠戸丸移民

児玉良一

日本人初の運転手

笠戸丸移民

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

二木秀人

先輩に触発されブラジル移民を決意

一世教育者(1911年生)