ディスカバー・ニッケイ

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ニッケイ物語 5—ニッケイ語:家族、コミュニティ、文化の言葉


2016年6月1日 - 2016年10月13日

「アリガトウ」「バカ」「スシ」「ベンジョ」「ショウユ」・・・このような単語を、どのくらいの頻度で使っていますか? 2010年に実施した非公式アンケートによると、南カリフォルニア在住の日系アメリカ人が一番よく使う日本語がこの5つだそうです。

世界中の日系人コミュニティで、日本語は先祖の文化、または受け継がれてきた文化の象徴となっています。日本語は移住先の地域の言語と混ぜて使われることが多く、混成言語でのコミュニケーションが生まれています。

このシリーズでは、ニマ会メンバーによる投票と編集委員による選考によってお気に入り作品を選ばせていただきました。その結果、全5作品が選ばれました。

お気に入り作品はこちらです!

  編集委員によるお気に入り作品:

  • ポルトガル語:
    ガイジン 
    ヘリエテ・セツコ・シマブクロ・タケダ(著)

  ニマ会によるお気に入り作品:

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遺産 (legacies) ニッケイ物語(シリーズ)

このシリーズのストーリー

第二のふるさとはブラジル・心のふるさとは日本

2016年9月12日 • 筒井 真理奈

母は日系ブラジル人、父は日本人で、私は日本で生まれて、9才まで日本で暮らしました。 両親は、私とは日本語だけで話していました。どちらかの両親がブラジル人の場合、子供がブラジル人学校に入ることがありますが、私は保育園から小学校4年まで日本の学校に通いました。当時、ポルトガル語は「água(水)」と「obrigado(ありがとう)」のたった2つの言葉しか知りませんでした。それを、どういう場面で使っていたのかも思い出せません。 ブラジル人と会う機会は、母と一緒に…

バストスの日系号

2016年9月5日 • ロザ・トメノ・タカダ

コナ・ゴロショノ・ティオメム・シェンシェイガ・カワシタ– この文を理解できる日系人はいるでしょうか?これは方言とポルトガル語の単語が混ざったものですが、日本語の発音にすると、次のようになります。「先生は分厚いノートの購入を命じた」。私は通常、ブラジルで最も日系の都市であるバストスで生まれ育ったバストス生まれの人間として自分自身を紹介します。そこで、私が生まれてからずっと学んできた日系語の一部をここでシェアしたいと思います。日常的に使っていた一連のフレーズを覚えていて、何年も…

私がウチナーンチュであることを知ったきっかけ

2016年8月31日 • ハビエル・タカラ

小学校に入学した頃、私はリマのヘススマリア地区アルナルド・マルケス通り11区に祖父母と住み、のんびりした生活を送っていました。この地区の住人の多くは、先住民かアフリカ系黒人のルーツをもっていました1。しかし私の通っていた学校、時習寮サンタ・ベアトリス(Jishuryo Santa Beatriz)校の生徒のほとんどはチーノス(chinos2)だったので、とても驚いたことを覚えています。その衝撃に慣れるまではかなりの時間を要しました。当時、私の友達の多くは、オバー(祖母)…

日本製

2016年8月26日 • メアリー・スナダ

このおなじみの「日本製」という言葉を聞くと、私の母、八重子のことを思い出します。母は1927年3月7日、群馬県で生まれました。両親の新倉松治と吉は昔ながらの日本の価値観を常に持っていました。八重子は、3人の息子、宏、勝美、和彦の一人娘でした。裁縫とデザインが大好きでした。彼女の夢はファッションデザイナーになることでしたが、両親は別の考えを持っていました。彼らは娘が結婚して自分の家族を持つことを望んでいたのです。 1941 年 12 月 7 日に日本と米国の間で第二次世界大戦…

ハイ!

2016年8月23日 • ウッジソン・オカダ

私はリベルダージにある自宅から 1 ブロック先にある日本食料品店に隔週で立ち寄り、寿司、醤油、豆腐、米などの基本的な商品を購入します。そしてこの場所で、私はすでに本物のアスリートである小さな女の子に会いました。私が彼女をそう呼んでいるのは、まだとても若い(3、4歳くらい)にもかかわらず、この少女はすでに驚異的な存在であり、疲れを知らず、傑出した存在であり、オリンピック選手にさえなっているからです。その日、私がそこにいた間、冗談ではなく、彼女は店の通路を20分以上走り続けたの…

ようこそ、みなさん

2016年8月17日 • リンダ・クーパー

30年前、とてもうれしいことに、私がハパとして継承している二つの文化を紹介するイベントが二つ開かれました。私は、日本人の母と陸軍の職業軍人だった南部紳士の父の娘です。二人は第二次世界大戦後の日本で出会い、結婚しました。 父が軍にいた間、私は両親と一緒に世界中を回り、父の退役後はテネシー州メンフィス郊外の小さな町で育ちました。 1986年のメンフィス・イン・メイ・インターナショナル・フェスティバルでは、大バーベキュー大会や音楽演奏に加えて、日本にちなんだ催しが行われました…

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このシリーズの執筆者

シルビア・ルミ・アキオカはブラジルの三世です。17歳のときに出稼ぎをし、別のときには福岡県に交換留学生として滞在し、そのときに「世界を旅するブラジル人の一年」(ポルトガル語のみ)というシリーズを出版しました。これが彼女とディスカバー・ニッケイとの初めての出会いでした。彼女は日本文化の崇拝者であり、他のテーマについてブログを書くことも好きです。彼女は2012年4月にディスカバー・ニッケイのボランティアとしてロサンゼルスに滞在し、以来6年間このプロジェクトの公式コンサルタントを務めています。

2019年2月更新


インペリアルバレー開拓者博物館の常設ギャラリー、日系アメリカ人ギャラリーのコーディネーター。祖父母は、現在ティムが暮らすカリフォルニア州ウェストモーランドに鹿児島県上伊集院村から1919年に移住してきた。1994年、ティムは鹿児島ヘリテージ・クラブに入会し、会長(1999-2002)と会報誌編集者(2001-2011)を務めた。

(2013年8月 更新)


コミュニケーション・コンサルタント兼フリーランス・ライター。広報、米国上院議員担当報道官、ジャーナリストとして30年以上の経験を持つ。ミシシッピ女子大学でジャーナリズムと政治学を専攻し、文学士を取得。テネシー在住。親友のブレンダは医療研究機関に勤める公認看護師で、家族の近くで暮らしている。


(2017年9月 更新)

 


セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)


パラナ州出身。ロンドリーナ州立大学歴史学部・ロンドリーナ高等教育センター教育学部卒業。市立・州立学校の元教師。広島大学で文部科学省留学生(1987年ー1989年)。日本文化を継承する目的で成立されたロンドリーナの「グルッポ・ヒカリ」のメンバー。このグループのウェブサイトの写真編集を担当。

(2016年9月 更新)


ニューヨーク市、および南加に30年滞米、1994年、帰国し、現在北九州市に住む。 ジョアン・オッペンハイム著『 Dear Miss Breed: True Stories of the Japanese American Incarceration During World War II and a Librarian Who Made a Difference (邦題:親愛なるブリードさま -強制収容された日系二世とアメリカ人図書館司書の物語-)』の邦訳を東京・柏書房より出版。

(2012年9月 更新) 


福島県石川町生まれ。1973年に結婚し、科学者の夫と共にカナダのニューブランズウィックへ移住。1977年に、アメリカのサンディエゴへ移り住む。1985年から2001年にかけて、みなと学園にて教鞭をとり、現在はサンディエゴ南バプテスト日本語教会にて秘書を務めている。

(2016年6月 更新)


彼は、情報技術、コンサルティング、評価、技術支援、ソフトウェアとハ​​ードウェアのコンサルティング マーケティングの分野で技術および商業コンサルタント、製品開発、アナリストおよびビジネス マネージャー、企業アカウントとして働いており、ソフトウェア プロジェクトの作成とコンサルティング セールスを専門としています。 . 戦略的セキュリティインテリジェンス、電子監視および画像。


1952年生まれ。サンパウロ州ヴェラ・クルス出身。サンパウロ市居住。80年代、新聞「Folha de São Paulo」のユーモアページや有名なユーモア週刊誌「Pasquim」に投稿。2010年から 「Nippak/Brasil新聞」のコラムニスト。www.algoadizer.com.br にもコラボ。


(2014年11月 更新)


キャロリン・ナカガワは、カナダのバンクーバーという先住民の未割譲地に生まれ育ち、そこで暮らす劇作家兼詩人です。現在は日系カナダ人博物館で働きながら、ニューカナディアン紙とそれが現代の日系カナダ人に残した遺産について長編劇を執筆しています。

2019年2月更新


メキシコ生まれの日系メキシコ人二世。筑波大学卒業後、ボストン大学大学院進学。国際関係学修士。現在はロサンゼルスでReiyukai Americaにて事務局長として勤務。

(2015年10月更新)


ウッジソン・オカダ(通称:ウデー)は、1979年8月2日、サンパウロ州マットン生まれ。2005年からサンパウロ市リベルダーデに居住。「ニッパク新聞」のエッセイストのひとり。作家として幾つかの文学コンクールで受賞歴がある。その一つに、DF(連邦区)SESC文学賞・短編小説2位に選ばれた経験がある。

(2016年7月 更新)


パラナ州アラポンガス出身。パラナ州ロンドリーナ州立大学経営管理学部卒業。ロンドリーナのジュエリー・セミジュエリーの問屋のサイトやファンページの写真とビデオを担当。「グルッポ・イシンダイコ・デ・ロンドリーナ」のコーディネーターの一人。日本文化を継承する目的で成立された「グルッポ・ヒカリ・デ・ロンドリーナ」のメンバー。このグループのウェブサイトの撮影、製作、ビデオ編集を担当。


(2018年6月 更新)


パウリスタノは 26 歳で、サンパウロの首都に住んでおり、生産工学を学んでいます。彼は映画、公園で走ること、水泳、ジムで運動することが好きです。彼は日本で働きに行く準備をしています。

2016 年 6 月更新


サンパウロ州、サン・ベルナルド・ド・カンポ出身。化学エンジニア、経営管理学・ビジネスマネジメント・環境教育専攻。1994年、千葉県に水処理を学ぶため留学。現在、観光会社の経営者。多数の非営利団体に活躍中、JCI – Junior Chamber International サンパウロ・チャプター元理事長及びJCIブラジル常任副会頭。ASEBEX – Associação Brasileira de Ex-Bolsistas no Japão(日本留学生・研修員ブラジルOB会)審議会会長。IPK – Instituto Paulo Kobayashi副会長。APNB – Associação Pan-Americana Nikkei do Brasil(ブラジル・パンアメリカンニッケイ協会)税務顧問。Associação Chiba Kenjin do Brasil(ブラジル千葉県人会)第二常任理事。ブラジル日本文化福祉協会コミュニケーション・マーケティング委員。

(2014年11月 更新)

 

 

 

 

 

 

 


ニルトン・スエナガは1987年、サンパウロ州ガブリエル・モンテイロ生まれ。建築家、都市計画家。2010年にFAU-USPを卒業しています。2011年から2015年までSPBR Arquitetosのパートナー建築家を務め、現在はSabiá Arquitetosの創設パートナーの一人です。また、サンタクルススクールの建築言語学教授でもあり、Vitruviusオンラインポータルで公開されているシリーズ[un] predictable são pauloを担当したイラストレーターでもあります。

2016年10月更新


メアリー・スナダ氏は夫のジョンと結婚して43年になり、ジェームズとデイビッドという二人の息子がいる。元小学校教員で、ロサンゼルス統一学区の小学校に36年勤めた。現在は、オレンジ郡仏教会、全米日系人博物館、ゴー・フォー・ブローク全米教育センターの会員。好きなことは、釣りやダンス、そして昔からの友人たちや新しい仲間と旅行をすること。ディスカバー・ニッケイへもしばしば寄稿している。

(2023年10月 更新)


日本移民のゆかりの地と知られているバストス生まれ。娘2人、息子2人の母親で、目に入れても痛くない孫が3人。料理するより食べる方が好き。末っ子の息子はおばあちゃんの影響か、料理上手でグルメ。毎年、庭の桜の開花を待ち望んでいる。18歳からクリスチャンであり、賛美歌を歌うのが一番のしあわせ。

(2012年9月 更新) 


ハビエル・タカラ(ペンネーム)氏は、沖縄系の日系三世であり1965年にリマ市で生まれ。父方の祖父母は久米島出身で、母方は糸満出身。1989年に、出稼ぎ労働者として日本に行き、現在は神奈川県座間市に在住している。自身のブログにエッセーなどを掲載している。 elblocdejaviertakara.blogspot.com.


現在61歳。生まれも育ちもサンパウロ市で、祖先は沖縄県人。結婚し2児の母。退職後、文章を書いて昔を思い出したり、視野を広げたりしている。

(2018年10月 更新)


チャック・タサカ氏は、イサブロウ・タサカさんとヨリエ・タサカさんの孫です。チャックのお父さんは19人兄弟の4番目で、チャックはブリティッシュコロンビア州ミッドウェーで生まれ、高校を卒業するまでグリーンウッドで育ちました。チャックはブリティッシュコロンビア大学で学び、1968年に卒業しました。2002年に退職し、日系人の歴史に興味を持つようになりました。この写真は、グリーンウッドのバウンダリー・クリーク・タイムス紙のアンドリュー・トリップ氏が撮影しました。

(2015年10月 更新)


1995年静岡県生まれ。2004年にブラジルに渡伯。サンパウロ市の中学・高校卒業。本年、サンパウロ美術大学センターでグラフィック・デザイン科を卒業。趣味はダンス、スウィーツ作り、ゴールデンレトリバーのライカとブルースと遊ぶこと。目標はダンスを通して神様に仕えること、グラフィックデザイナーになること。

(2016年9月 更新)


サンパウロ州ベベドウロ出身。サンパウロ総合大学看護学部卒業。2010年引退までロンドリーナ州立大学教授。同大学の高齢者向けのラジオ番組「Tecer Idades」のプロダクションの一人。コミュニティの高齢者化プロジェクトのボランティアとして活動。寝たきり高齢者と介護者のためのロンドリーナにあるサポートハウスの取締役会に参加。日本文化を継承する目的で成立された「グルッポ・ヒカリ・デ・ロンドリーナ」のメンバー。このグループのウェブサイト製作、編集を担当。

(2018年6月 更新)