ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1793/

初期の日本人移民の職業

最初はみんな農業で、内陸部に行って、コーヒー農園で働いたりしてたんですけど、コーヒー農園での契約が終わると、そのままそこに残ったり、あるいは違う、なんて言いますかね、農場を探して行ってみたり、あるいはあの平野運平のようにですね、グループができて、それこそ、サンパウロ州の内陸部に安い土地を買って、そう言ったところを開拓して、農業やったと言うような人達がいれば、もちろん農業をやる人だけではなくて、そのさっき言ってた私の戦前に行ったそのくましたと言う家の人たちのように、飲食店をやったりですね。それから洗濯、洗濯屋さん、それから、まあそういう、あるいはその朝市、フェラって朝市でその今度はその野菜とかそういう、生鮮食料品を売るような仕事をするような人達も、増えていったということなんですね。

ですから、日本人が農業と切っても切れない関係があると言うのは、そういう関係から出て来て、農業をやって、それでまあ成功して、段々大規模な農業をやるような人も増え、あるいは都会に出て来て、子供を教育しながら、そう言ったその小さな商売をやるような人も増えてきてですね。


連合国軍の日本占領(1945-1952) ブラジル コーヒー コーヒー農園 農家 ファーマーズマーケット 世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) プランテーション 小売店

日付: 2019年9月19日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1948年長野県に生まれた二宮正人氏は、5歳の時一家でブラジルへ移住。 現在は、サンパウロに法律事務所を構え、サンパウロ大学法学部にて博士教授を務める傍ら、明治大学の学長特任補佐、武蔵野大学法学部客員教授を務める。 1992年の創設時よりCIATE-国外就労者情報援護センターの理事長、日本学術振興会(JSPS) 中南米アドバイザー、国際協力機構 (JICA)の委員なども兼任している。 また、ブラジルニッケイコミュニティリーダーとしても一目置かれており、ブラジル人のデカセギの労働状況の改善や、日系人子弟の教育など、様々な活動をサポートしている。(2021年5月)

堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

帰米二世(1929年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

アントニオ・シンキチ・シコタ

ブラジルで育ち、日本語にあまり関心がなかった (ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に移住した理由(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に住むメリット(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本の日系コミュニティの将来(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町がブラジルタウンになった理由(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

ファン・アルベルト・松本

父がアルゼンチンへ移住した理由

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

笠原 ハルオ

日本が恋しくて泣いた日々

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

笠原 ハルオ

大変だったプランテーションでの仕事

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

笠原 ハルオ

一日中子供を預けて仕事

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

笠原 ハルオ

真珠湾攻撃後のプランテーションの対応

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

カズム・ナガヌマ

親のペルーへの移住

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)