勝ち組・負け組

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それから、1941年ですか、昭和16年の7月末ですかね、今度はもう外国語による新聞の発行が禁止されたんですね。そうすると日本人の圧倒的大多数はポルトガル語ができないから、結局その日本語の新聞によるそのニュースがわかんなくなってしまって。で、そのうち戦争が始まり、日本からのニュースが短波放送によるものしか聞けなくなってですね、それで戦争が終わった時に、戦争が終わった時に日本が勝ったとか負けたとかそういう議論になる、なるわけですね。それで、勝ち組とか負け組とか言う、今で言えば考えられないような、そんなことが起こってですね。

その日本が負けたと認識していたのは、やっぱりそのポルトガル語が分かり、あるいは英語がわかるような、いわゆる日系社会のインテリ層の人達だったんですが、しかしその臣道連盟とかそういうのが、結局その日本が負けたと言ってる連中は国賊だ見たいなことになり、それで、そんな今で考えればちょっとなんて言いますかね、本当に常識外れのようなことが起こって。たしか23人位のいわゆる認識派ですね、敗戦派と言うのが殺害され、150~160人が怪我をし、それでまあブラジル政府もほっとけなくなってですね、それでまあ、あのそういった人達を逮捕して、サンパウロ州の北部海岸にあるアンシェッタ島という島の刑務所に送り込んだと。

100周年、2008年の時に、「私は誰誰をえ~殺したんだ」と言うような人なんか出てきたりしてですね。その彼が腹に巻いていたというその寄せ書きがまぁ今移民資料館に飾ってありますけどね。

日付: 2019年9月19日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: 西村 陽子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

Brazil Kachigumi makegumi Shindo Renmei World War II

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