ディスカバー・ニッケイ

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お手伝い (英語)

(英語) (母は)子供たち全員に仕事を割り当てました。兄や弟たちは庭の手入れをし、私は毎朝鳥に餌を上げるのが日課でした。野菜を細かく切って残り物のごはんと混ぜ、それを鳥に食べさせ、それから卵を拾うんです。時々卵を落としてしまったりすると、母にものすごく怒られ、お尻をたたかれましたよ。母は私たちに卵を食べさせてくれませんでした。卵は売り物だったので、そんな余裕はなかったんです。大変でしたよ。

その他にも私は兄弟姉妹全員のお昼を作らなくてはいけませんでした。姉が(お嫁に)行ってしまい、娘の中では私が一番上だったので、いろいろな責任ある仕事を任されるようになりました。9歳でした。母は一日中洗濯場にいたので、私が家族の食事を作りました。簡単なものですが・・・あのころはステーキもありませんでしたし、スパゲティーの作り方も知りませんでした。私がメイドとして働くまでは、スパゲティーなんて見たこともなかったですよ。だから食事は野菜料理が多く簡単なものでした。少しだけベーコンを炒めて入れたりしてね。(そんな感じで)私が料理をしていました。

朝は5人の兄弟姉妹のお昼を作りました。そして毎朝・・・チョリソ(ソーセージ)は今高いですね。食べたいけど高くて買えないわ・・・私たちが子供の頃、母がチョリソを大きな缶で買っていました。一番簡単にできる料理(はチョリソを使ったもの)でした。毎朝それを薄く切ってカリカリに炒めお弁当箱に入れるんです。長方形のアルミ製の箱を買ってね。ある日、ポルトガル人の先生のミセス・メンドンサがクラスの皆の前で私のお弁当箱を持ち上げて――確か私が小学校4年生か5年生の時だったと思います――「フサコのお弁当を見てごらんなさい。毎日チョリソを持ってきているけど、これは身体に良くないの!」と言ったのを覚えています。本当に恥ずかしかったです。


家族 食事 プランテーション

日付: 2004年2月19日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)

キャサリン・ドイ・トッド

J・アンソニー・クラインからの連絡(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

スタン・サカイ

家族に認められたこと(英語)

漫画家(1953年生)

タミオ・ワカヤマ

父の犠牲(英語)

日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)

テリー・ジャンゼン

日本で育ったこと(英語)

(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ

ローズ・オチ

結婚50周年を迎えて(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

ローズ・オチ

父と玉(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

ハルノリ・オダ

アメリカ生活の始まり(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

ジョージ・タケイ

ジョージの母とブラッド(英語)

俳優、活動家(1937年生)

ウィリー・イトウ

両親(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。