(英語) 僕の父を含む、日系一世の男性が働くことができた唯一の場所が、ダーリングスと呼ばれる場所でした。近隣の農場から運び込まれた家畜を解体する作業所でした。巨大な牛が運び込まれた時の様子を覚えています。鎖に引っかけられて吊るされ、皮が剥がされるのです。すさまじい光景でした。皮は地下に運び込まれ、なめされ、革に加工されます。父はそこで働いていました。幸い僕がそこで働くことはありませんでしたが、兄たちは夏休み期間中アルバイトをしていました。
作業所は地獄でした。地獄以外の何ものでもありません。夏に煙突がフル稼働すると、チャタムの街はひどい悪臭に覆われました。マクレガー川は家から目と鼻の先にありましたが、分厚い層のカスが浮いていて、水は見えませんでした。公害や環境に対する意識が高まるずっと前の時代です。今ではこんなことは許されません。
僕が作業所に行ったのは一度きりです。母に、「お父さんに夕飯のお弁当を持って行ってあげて。今日は遅くなるから」と頼まれた時です。僕は自転車に飛び乗り、作業所に向かいました。お弁当を持ってコンクリートの階段を下り、地下にある父の仕事場に行きました。
ひどく汚いところでした。塩漬けされた皮が積み上げられ、血と塩水が床にどくどくと流れていました。壁には血が飛び散り、強烈な悪臭を放っていました。次元が違いました。ものすごかったのです。そこから出て来た父は、黒いゴム製のエプロンとゴム長靴をはき、ベルトに何本かナイフを差していました。なんというか、父はとても疲れているようでした。とにかくもうぐったりしていました。作業所の廃物と共に、父の人生もむざむざと流されてしまっているかのようでした。父にお弁当を渡すと僕はすぐに飛び出し、走って外に出ました。一秒でも長くそこに居たら僕は吐き気を催し、その気持ちの悪い床に僕の吐しゃ物もまき散らしてしまっていたでしょう。それが父の人生でした。
父が亡くなったのは、僕が自分自身のアイデンティティを確立しようとしていた頃、反抗期の延長線上にある時期でした。僕は父にも反抗していました。父はとても厳格で抑圧的でした。父と息子の温かい関係というようなものは記憶にありません。父は一世でしたから。一世の男性は感情をほとんど表に出さないのです。父は僕を愛し、僕らを家族として愛してくれていたことはわかっています。そうでなければ、あんなに長い間、あの地獄のような場所に毎朝通うことなどできなかったでしょう。
父が亡くなり、僕にはひとつ後悔があります。父は僕らにより良い生活を与えるため、長い間毎朝あの地下室に通いました。それがどんなに勇気のいることだったか、今ではよくわかるのです。でも僕は、この気持ちを一度も父に伝えられませんでした。
日付: 2011年2月9日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター