https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1683/
帰米二世、詩人、活動家(1923年生)
(英語)その日曜日、父は川柳会の会合に出かけていました。リトルトーキョーのマネキというレストランだったと思います。FBI捜査官が来たのは――確か真珠湾攻撃は早朝かなり早い時間でしたね――そのたった数時間後でした。3人の捜査官が父を訪ねてきました。私たちは、「ここにはいません。リトルトーキョーに居ます」と答えました。
捜査官2人が家の中に入ってきて、1人がこう言ったのを覚えています。「ようし、お前たち」。手には銃を持ち、「そこに座れ」と言いました。誰が来たのか戸口に見に行ったのは、兄のトッシュ、弟のジョーと私でした。母はまだ教会で、家に居たのは私たち3人と病気だった兄のマイクでした。この1年前、マイクは日本に行って結核にかかり、二階で寝ていました。「家の中に他に誰かいるか」と捜査官が聞くので、「はい、二階に兄がいます」と答えました。捜査官は、「ここに連れてこい」と言いました。9歳だったジョーが飛び上がって階段を上がろうとしました。すると捜査官は、「いや、座ってろ。ここから呼べ」と言いました。私たちはマイクを呼びました。マイクはバスローブ姿で下りてきて私たちに合流し、私たち4人はソファの上で小さくなって座っていました。
捜査官の1人が、銃を握ったまま私たちの真ん前にあるオットマン(足載せ台)に座りました。私たちが何をしようとしているとこの捜査官は思ったのか、私には分かりません。
日付: 2018年8月7日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: シャーロン・ヤマト
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1923年、母親の里帰り中に日本で生まれる。ワシントン州シアトルで育ち、第二次世界大戦開戦後、アイダホ州のミニドカ強制収容所に収容される。クエーカー教徒のボランティアに助けられ、オハイオ州シンシナティの仕事を得て収容所を出る。シンシナティ大学を経てニューヨーク大学で文学士を取得後、シカゴ大学で文学修士号を取得する。
移民国籍法が通過した後米国に帰化し、1955年に米国籍を取得した。
幼少期から詩を書き続け、1976年に『ミニドカ』、『収容所ノート』、『その他の詩』の作品を収録した最初の本を出版した。39歳の時に健康上の不安を乗り越えて教師として働き始め、その後多くの本を出版した。
カリフォルニア州アーバインで人権擁護グループの設立を支援し、その結果1980年代にアムネスティ・インターナショナル理事会メンバーに選出された。その後多くの人権擁護活動に積極的に参加し、特に女性の人権擁護活動で知られるようになった。(2018年8月)
子供の視点で見る収容所の非日系人(英語)
作家(1934年生)
恥ずかしくて話せなかった収容所の体験 (英語)
甥との対話から生まれた小説 (英語)
後に続く世代のために残す家族の記録 (英語)
収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)
戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)
日本とアメリカでの教え方の違い(英語)
政治権力の欠如が収容所の一因(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
別々に収容された家族(英語)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
ニューヨーク市の日本人に対する戦争ヒステリア(英語)
制度化されたシステムの悪影響(英語)
日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)
1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)
1941年12月7日の記憶(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)