ディスカバー・ニッケイ

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戦中の社会貢献(英語)

(英語)ヒロにいたときは、世の中はちょっと普通ではありませんでした。みんなある仕事をやらなければならないの。それで、小学生の頃は、半日はホノムの学校に通うんですが、あと半分はVictory Core の仕事をやりました。みんなこのVictory Coreの仕事をやらなければならなかったの。

I*: Victory Coreの仕事とはなんですか?

それは戦争に勝つための助けになるなら何でもやるんです。例えば農場に行って働くとか。父が農場を持っていたので、うちの家族は父の農場の雑草とりなんかしましたね。友達は別の農場に行って働いてました。戦争のためにはそういったこともやらされましたね。

*「I」はインタビュワー(Akemi Kikumura Yano)


ハワイ プランテーション アメリカ合衆国 Victory Corps 第二次世界大戦

日付: 2006年5月31日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

マーガレット・オダ博士は、ハワイ州ビッグアイランド(ハワイ島の愛称)のワイレアで生まれました。オダ博士は2世で、両親は広島からの移民でした。彼女の父は、後に副社長となったワイレア製糖工場(Wailea Milling Company)のさとうきび農園で働いていました。

オダ博士は、ミシガン州立大学で数学の修士号を取得し、1977年にはハワイ大学マノアキャンパスで教育学の博士号を取得しました。オダ博士は1951年に初めて教鞭をとり、ハワイ全土の公立の小中高等学校で教頭や校長の役職を得るに至りました。その後、博士はハワイ州教育庁の副教育長を3年間務め、1980年代にはホノルル地区の教育長を2期務めました。1990年代の後半に引退するまで、行政の立場から公立教育に従事しました。

オダ博士の教育分野での慈善活動は有名で、皇太子奨学金、ハワイ・プレパラトリ・アカデミー、ハワイ日本文化センター(Japanese Cultural Center of Hawai‘i)などの、地域に根ざした団体の評議員を務めてきました。オダ博士は過去には全米日系人博物館ハワイ諮問委員会の議長であり、現在は博物館の理事に就任しています。(2007年4月6日)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

ハワイ島コナのコミュニティ(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)