ディスカバー・ニッケイ

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終わることを知らない人種差別 (英語)

(英語) ジムと結婚した理由のひとつには、彼が白人だったということがもちろんあります。(白人の彼と結婚すれば)守ってもらえるだろうし、(アメリカ社会に)受け入れられるための私なりのやり方だったんです。それに生まれてくる子供たちも、私のような辛い経験をしなくてすむと思ったんです。これで子供たちが人種差別に会うことは絶対ないとね。

ところが、子供たちがティーンエイジャーになってからこんな事を聞いたんです。「(人種差別は)もちろんあったよ。ひどかったね。Chinamanとかchink(中国人の蔑称)とか呼ばれてさあ」私の子供たちがそんなふうに呼ばれてたなんて・・・私は「そうだったの、(人種差別は依然として)なくなっていないのね」と言いました。もちろん子供たちは(私たちより)ずっと意識が高くプライドも強いですからちゃんと戦うのでしょうが、私にはそのことについて何も言いませんでしたね。子供たちからその話を聞いた時はものすごくショックを受けましたし、心が痛みました。彼らも人種差別を受けたのですからね。


差別 ハパ 対人関係 多人種からなる人々 人種差別

日付: 2005年12月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・ワカツキ・ヒューストンは『マンザナールよ、さらば-強制収容された日系少女の心の記録(Farewell to Manzanar)』(1975年、現代史出版社)の共著者としてよく知られています。1934年、カリフォルニア州イングルウッドに10人兄弟の末っ子として生まれました。幼少時代は南カリフォルニアで過ごしていましたが、1942年、7歳にして家族とともにカリフォルニア州マンザナーにある強制収容所へ収監されました。

ワカツキ一家は1945年に南カリフォルニアへ戻り、1952年にはサンノゼへ転居しました。その後、彼女はサンノゼ州立大学へ進学し、社会学とジャーナリズムを専攻しました。卒業後、数年間カリフォルニア州で働いた後、パリへ留学し書法を学びました。また、1957年にはサンノゼ州立大学で知り合ったジェームス・D・ヒューストンと結婚。以後、3人の子供をもうけます。

1971年、マンザナーで生まれた甥に収容所の体験について尋ねられました。彼は両親に同じことを尋ねたのですが、話してくれなかったそうです。ヒューストン氏は甥にかいつまんで伝えるため、自らの体験談を書き記すことにしました。夫とともにFarewell to Manzanarを書きあげました。1972年に出版されたこの本は、彼女だけでなく彼女の家族の戦前、戦中、戦後の体験を書き記してあります。現在では、多くのアメリカの学校で日系アメリカ人の収容所体験を教えるための教材のひとつとして使われています。また、この本は1976年にテレビ映画化されており、ヒューマニタス賞を受賞。エミー賞のドラマ部門脚本賞にもノミネートされました。

Farewell to Manzanar以来、ジーンは夫とともに作家活動を続けています。2003年には、初の小説The Legend of Fire Horse Womenを発表しました。さらに、大学やコミュニティ機関で数々の講演を行っています。2006年には彼女の社会への貢献が認められ、全米日系人博物館より賞が送られました。(2006年11月25日)

フランチェスカ・ユカリ・ビラー

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