日系人社会の中心だったEast First Street (英語)

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(英語) (戦前のロサンゼルスの)East First Streetは日系アメリカ人コミュニティーの中心で、みんながそこに来ていたんです。でも戦後はすっかり変わってしまい、誰もそこへは行かなくなってしまいました。そこに行くのがなんとなく怖かったというのもありますし、とにかくそのまますーっと消えてしまいたかったんですね。リトル東京の記事を書いた時に調べたのですが、戦後は(日本人に代わって)アフリカ系アメリカ人やメキシコ人の集る場所になったようです。

そういえば(最近この場所に関連して)偶然の出来事がありました。私がまだ若い時、確か14歳か15歳だったと思いますが、ロング・ビーチの鼓笛隊でバトンガールをしていたんです。その時、高野山ボーイスカウトの鼓笛隊がイーストLA、つまりEast Fist Streetで、再び音楽隊を結成することになり、一緒にやらないかと誘われたんです。あれは2世ウィークの一環だったので、確か1948年か49年頃だったと思います。それでその音楽隊に参加することになり、他の女の子2人とバトンをくるくる回しながら、Far East Caféレストランの前などを通りFirst Streetを行進したんです。

その時、誰かはわかりませんが、私たちの写真を撮った人がいたんです。(最近になって)名前は忘れてしまいましたが、誰かが私に電話をしてきて、その写真のバトンガールが誰かを探していると言うんですよ。私以外の2人は分かったらしいのですが、(あともう一人がわからず)「これはジーン・ワカツキじゃあないかな?」という話になったようなんです。どうやらテッド・クモリという当時そのボーイスカウトにいた人が、私の顔を覚えていたらしく、それで誰かが、あれはエドワード・タカハシだったかしら、私のところに電話をしてきたんです。(その時)高野山ボーイスカウトは記念式典か何かをやる予定で、それで(写真に写っているバトンガールを探していて)私かどうか確かめたかったということだったんですね。今でも覚えていますよ。「そう、行進しているのは私よ!」と答えたのをね。

こうして2、3年前、二世ウィークの、何ていったかしら、グランド・マーシャルといったかしらね、まあその呼び方はともかく、イベントに来るよう誘われ、それでオープンカーに乗ってパレードに参加したんです。オープンカーは高野山ボーイスカウトに誘導され、私はパレードの間中ずっと(感動して)泣いていました。あれ以来ずっと足を踏み入れていなかったこの場所に再び来て、解体中のFar East Caféレストランの前を通り過ぎていく・・・「すごいわ!昔がそのまま再現されているみたい!でも今回はオープンカーだけど!」と言いました。50年前はボーイスカウトバンドの前を(歩いて)行進していたましたからね。

日付: 2005年12月27日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: ジョン・エサキ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

festival first street little tokyo Nisei Week parade

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