ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1195/

自分らしく歌うためのスタイル

自分のスタイル、このヒップホップスタイルなんですけど、本当に普通毎日生活しているうちに、いつもこのスタイルで生活していて、このヒップホップスタイルのまま演歌を歌いたいと僕が最初からお願いしたのですけども。何故かと云うと、やはり、いつもステージに立つ時に、自分らしく演歌を歌いたいということを、自分に決めて、それを守りたかったんですよね。


演歌 ファッション ハパ アイデンティティ 音楽 多人種からなる人々

日付: 2010年3月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センターによるインタビュー。日米文化会館による協力

語り手のプロフィール

ジェロ(本名ジェローム・チャールズ・ホワイト・ジュニア)は、1981年9月4日ペンシルバニア州ピッツバーグで生まれました。アフリカ系アメリカ人のジェロの祖父は、第二次大戦中に兵士として来日し、日本人の祖母と出会いました。2人は結婚し、娘のハルミが生まれ、その後一家は祖父の故郷のピッツバーグへ渡りました。ジェロの両親は、彼が子供の頃離婚し、彼は日本文化の影響の強い中で育ちました。ジェロが演歌と出会ったのは、祖母の影響でした。そして彼が演歌を歌い始めたのも、祖母の勧めがあったからでした。2003年、ピッツバーグ大学を卒業したジェロは、日本へ渡りました。英語講師やコンピュータ技師として働きながら、プロの歌手を目指し、祖母が大好きだった紅白歌合戦にいつか出場できるよう努力を重ねました。紅白歌合戦への出場は、ジェロが祖母と交わした約束だったのです。

伝統的な演歌と最近のヒップホップを組み合わせたジェロのスタイルは、下火だった演歌界に新たな生気を与え、さまざまな年齢層のファンを魅了しました。彼が交わした祖母との約束は大勢の人々の胸を打ち、ジェロの紅白歌合戦の出場は、2008年大晦日のハイライトとなりました。同年、彼は日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞し、日系の間でも人気歌手となりました。2010年にアメリカで開催したコンサートのチケットは、すぐに売り切れとなりました。(2010年3月)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

10代のサトウキビ畑で働いた経験が、スポーツ選手としてのトレーニングに役立つ

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

ロイ・H・マツモト

ニックネーム(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・H・マツモト

日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジョージ・アベ

自分のための演奏 (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

田中誠一

太鼓哲学

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

リチャード・コサキ

ワイキキで育った経験(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

ロイ・ヒラバヤシ

バンクーバーに太鼓を紹介(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ロイ・ヒラバヤシ

太鼓演奏の哲学(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ケニー・エンドウ

ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)

和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)