https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/999/
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
(英語) ある教会の建物で公開ミーティングがもたれたんです。そこでは、Heart Mountain Sentinelの編集長であり、パサデナ市のJACL(米国日系人市民協会)の元会長だったノブ・タワイだったと思いますが、彼は二つの質問事項に対して「Yes、Yes」と答えるよう他の人へも促していました。ある年配の男性(キヨシ・オキモト)が実はハワイ出身の太陽エネルギー化学者だったということは後になって知ったことですが、当時彼はACLU(アメリカ自由人権協会)のメンバーで、とてもぶっきらぼうな物言いをする人でした。彼は立ち上がり、「憲法で我々に保障されている権利の全てが踏みにじられ、今我々には何の権利もない状態だ。そのことをここにいる全員が考えるべきだ」と人々の前に出て言いました。国家の忠義に関する質問についても、「Yes」と回答する前によく考えるべきだ、と言いました。そこに居合わせた人の中には、この人が言っていることは自分の考えと一緒だ、と感じる人たちがいました。それから彼は、「たった一人の公平委員会」と自らを名乗り、収容所の中を歩き回っては、合衆国憲法について話し聞かせる集会を開いていたのです。そのうち私たちの中には、「この小父さん自分が何を言ってるのかちゃんとわかってるんだな。この人と一緒に自分たちも何かしよう」と考える者も出てきました。私たちは彼の活動に加わり、話をしたりミーティングを開いたりして結果的に「大勢の公平委員会」が組織されるようになりました。
日付: 2006年5月9日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: リサ・イタガキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
フランク・エミ氏は、1916年9月23日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼が家族と共に営んできたビジネスは、戦争により廃業に追い込まれ、エミ氏と妻、2人の子供はハートマウンテン強制収容所に送られました。 エミ氏は、多くの人々と共に日系アメリカ人強制収容の合憲性について声高に問いました。また、ハートマウンテン公平委員会の立ち上げに貢献し、徴兵拒否運動を起こし、政府が日系人に対して取った措置に抗議しました。当時、エミ氏には子供がいたため、徴兵対象者ではありませんでした。 公平委員会は、日系人がアメリカ市民権を取り戻し、家族が収容所から解放されれば、喜んで兵役を受け入れると論じました。合衆国政府は、エミ氏と他6名のリーダーを徴兵忌避の共謀罪で訴えました。エミ氏は、18か月投獄され、他86人は裁判を経て徴兵拒否の罪で投獄されました。 戦後、エミ氏や他の徴兵拒否者は、日系人リーダーや退役軍人からつまはじきにされていました。その扱いは、戦後40年経ち、賠償運動が高まり、不正に対して毅然と立ち向かった公平委員会への汚名が晴らされるまで続きました。 フランク・エミ氏は、2010年12月、94歳で亡くなりました。(2010年12月)
収容所で始めたYMCA活動(英語)
二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)
全てを残して(英語)
アーティスト(1926年生)
第二次大戦中に強制収容された心の傷(英語)
日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)
第二次世界大戦中に姉が強制収容で受けたトラウマ(英語)
刑事弁護士になる
(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士
勝ち組・負け組
サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)
1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
日系人としての誇り(スペイン語)
二世日系アルゼンチン人 (1929年生)
ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
逮捕された父(英語)
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
キャンプに対する妹の反応
(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家
母親の財布
ツールレイク収容所での貝殻による手工芸品作り(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
同胞の援助と協力 (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)