ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1011/

米国日系人市民協会からの謝罪 (英語)

(英語 )多くの人たちは、米国日系人市民協会(JACL)の幹部が、FBIや政府情報局、海軍情報局、陸軍情報局と協力していたという事実に驚いていました。おそらくJACLは、日系コミュニティ指導者についての情報を提供し、誰に目をつければいいか、FBIなどに教えていたんですね。そしてその後(JACLが関わった)様々な不正が明るみに出て来ました。(戦時中のJACLの役割と抵抗者への対応に関する)報告書が作成された後、クレッシー・ナカガワ氏が会長だった時代のJACL代表者会議で、JACLは91ページあったその報告書を、26ページに短縮された報告書にすり替えたのです。その26ページの報告書は、元の報告書とは似ても似つかない全く別のものでした。そしてその後しばらくして元の報告書が見つかったのですが、それは誰がどこから手に入れたのかはわかりません。とにかくその報告書が(信憑性のあるものと)判断され、コピーが人々の間で回覧されました。その報告書が本物だった訳です。このことがあって、JACLは戦時中の徴兵拒否者への対応について謝罪するに至ったのだと私は思います。謝罪が行われたのは、確か2002年ではなかったでしょうか?


日付: 2006年5月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: リサ・イタガキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランク・エミ氏は、1916年9月23日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼が家族と共に営んできたビジネスは、戦争により廃業に追い込まれ、エミ氏と妻、2人の子供はハートマウンテン強制収容所に送られました。

エミ氏は、多くの人々と共に日系アメリカ人強制収容の合憲性について声高に問いました。また、ハートマウンテン公平委員会の立ち上げに貢献し、徴兵拒否運動を起こし、政府が日系人に対して取った措置に抗議しました。当時、エミ氏には子供がいたため、徴兵対象者ではありませんでした。

公平委員会は、日系人がアメリカ市民権を取り戻し、家族が収容所から解放されれば、喜んで兵役を受け入れると論じました。合衆国政府は、エミ氏と他6名のリーダーを徴兵忌避の共謀罪で訴えました。エミ氏は、18か月投獄され、他86人は裁判を経て徴兵拒否の罪で投獄されました。

戦後、エミ氏や他の徴兵拒否者は、日系人リーダーや退役軍人からつまはじきにされていました。その扱いは、戦後40年経ち、賠償運動が高まり、不正に対して毅然と立ち向かった公平委員会への汚名が晴らされるまで続きました。

フランク・エミ氏は、2010年12月、94歳で亡くなりました。(2010年12月)

ジョージ・カツミ・ユザワ

ニューヨーク市の日本人会の起こり(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

ニューヨーク市の日系人社会との関わり(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ロレイン・バンナイ

子供社会の中で手本となる日系アメリカ人の存在の重要性 (英語)

弁護士(1955年生)

チェリー・キノシタ

駆り立てる思い (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ジョージ・ヨシダ

「Jタウン・ジャズ・アンサンブル」(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

日系アメリカ人市民同盟に参加した理由(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

クリフォード・ウエダ

中国系学生との関わり(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)