インタビュー
同胞の援助と協力 (スペイン語)
(スペイン語) 私は家の玄関を出ると、遠くに高齢の男性が目に入りました。彼は、ゆっくりと長い杖をつきながら、こっちに向って歩いてきたんです。「お父さん?」って叫んだんですよ。近づくと、その人が父であることが分かったんです。「お父さん、ここで何をしているの?」と尋ねたことを覚えていますよ。父は体調を壊し、病気になってました。「ベナンシオ、すまんけど、水一杯くれ」と言いました。私は走るように水をとりに行き、母には何も言わず、その水をすぐに父へ届けたのです。喉が渇いていた父はホッとしたようでした。そして一緒に家へ帰ったんです。
家に着いた後、私は[父の代わりに]事情を説明する手紙を書きました。それも日本語で。当時は日本語でも書けたのですよ。あて先は父の友人であるツケオ・イサヤマさんでした。彼はサンニコラス農場の有力者です。この書状は、回覧板のように移住地のみんなに渡り、みんなが僕がしたことに驚いたようです。私はまだ9歳でした。
三日後、二台のトラックが到着しました。トラックから出てきた人は、喪服を着てました。父が死んだと思ったんでしょう。イサヤマさんもネクタイを締めてそこにいました。「お父さんはまだ生きているのか?」って。私は、「ええ、でもかなり様態は悪いです」と答えました。でも、「良かったね」って言ってくれましたね。そして、家にある物を何人かの人でトラックに積み上げたのです。それからベッドのマットやシーツを運び、そこへ横たわるように父も乗せました。父が見えないように、毛布か何かをかぶせました。二台目にはちょっとした家具等も積んだのです。
家の中にはまだたくさんの家財道具が残っていましたが、ジャマチュパンへ向けて出発したのです。 サンニコラス農場地区に到着しました。すべて準備ができていました。日本人達はとても団結力があって、父が来るということで、家を準備してくれていたのです。シンキ(父)が来るということで、我々のために、ちゃんとした民家を用意してくれたのです。とても快適でした。だけど、どうにもなりませんでした。
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