ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1804/

人材育成をやってきたことが誇り

私がもうひとつやったことは、日本ブラジル交流協会というものがありまして、そこは1981年から2005年まで25年間で750人の日本人の学生をブラジルに連れてきて、1年間働きながら勉強するということをやったんですね。私はそのうちの約30人を引き受けましてですね、奨学金を出して勉強させました。

そうですね、玉石混交というか、いいのもいればそうでないのもいて、30人のうち3人は日本で博士課程を取り、3人は大学の先生になりましたね。外務省に入ったのもいれば交流基金に入ったりとか。私の一生のうちでもし自慢できることがあるとすれば、そういう教育というか、人材育成をやってきたということじゃないでしょうかね。移民資料館の仕事も重要だったし、CIATEの日本に働きに行くブラジル人たちの支援というのも大事だったと思いますけど、誇りにできるものは教育関係、人材育成ではなかったかなと思うんですね。


教育交流 交換留学生 国際教育 日本 交換留学プログラム 学生 若者

日付: 2019年9月19日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1948年長野県に生まれた二宮正人氏は、5歳の時一家でブラジルへ移住。 現在は、サンパウロに法律事務所を構え、サンパウロ大学法学部にて博士教授を務める傍ら、明治大学の学長特任補佐、武蔵野大学法学部客員教授を務める。 1992年の創設時よりCIATE-国外就労者情報援護センターの理事長、日本学術振興会(JSPS) 中南米アドバイザー、国際協力機構 (JICA)の委員なども兼任している。 また、ブラジルニッケイコミュニティリーダーとしても一目置かれており、ブラジル人のデカセギの労働状況の改善や、日系人子弟の教育など、様々な活動をサポートしている。(2021年5月)

ジーン・玻満子・シュナイダー

アメリカへの移住して良かったこと

戦争花嫁(1925年生)

上杉 武夫

ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に住むメリット(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人への政府の支援(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本の日系コミュニティの将来(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

いくつかの生い立ちを持ったユニークなアイデンティティ(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

1952年、戦後まもない日本での不自由な生活 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。