ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/833/

祖母に説得されて帰加した母 (英語)

(英語)母はホームシックにかかっていたんです。彼女は日本で第2子の出産を望んでいましたし、母親を恋しがっていたので帰国したんです。当時、母はまだとても若く、23歳で、帰国した時点でも確か20代前半でしたからね。彼女は実家で、2番目の子供を生みました。そして僕たちは日本に1年以上居たんです。父は(カナダで)仕事を続け、お金を送ってくれていました。結果的に祖母は、「お父さん(あなたの夫)はとても誠実で、毎月送金したりしてくれているんだからカナダに帰らなきゃだめでしょう。彼は彼がすべきことをしてくれているのだから、あなたも自分の役割を果たしなさい。」と言って、母がカナダに帰るよう説得したんです。カナダへ戻った頃、確か妹は1歳を過ぎていたので、僕たちは日本に約2、3年いたことになりますね。僕は戻ってきたときには4歳でもうすぐ5歳になる頃でしたから、日本に居たのは短くても2年半か2年です。カナダに戻り、もちろんその後はずっとカナダに住みました。


カナダ 移住 (migration)

日付: 2006年7月25・26日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・シミズ氏は、1928年ブリティッシュ・コロンビア州プリンス・ルパートで生まれました。第二次大戦中シミズ氏は、ニュー・デンバーに強制収容され、終戦後、現在の居住地であるエドモントンへ移り住みました。医学部を卒業したシミズ氏は、整形外科医となり、その後、医療関係の数々の要職を務めました。また、1989年から2002年には、日系カナダ人リドレス基金の会長を務めました。画家でもあるシミズ氏は、強制収容所の体験を題材にした数多くの作品を手掛け、それらの作品は、様々な場所で展示されています。シミズ氏のコミュニティへの貢献は高い評価を受け、1999年全カナダ日系人協会より表彰を受けました。また、2004年には、アルバータ大学の卒業生に贈られる賞を受賞し、同年、カナダ勲章を受勲しました。(2006年7月6日)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)