https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/364/
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
(英語)期待で胸が一杯だった高校3年の時、1941年12月7日に真珠湾攻撃が起きました。それで私たちの生活は一変しました。(私が通っていた)マッキンレー高校では1000人いた同学年の生徒が800人以下に減りました。学校に通えるはずの多くの生徒たちが、防衛組織の一員として、特に真珠湾で働きました。もちろん日本人を祖先にもつ私達は(防衛組織で)働けませんでしたが、他に出来ることがありました。学校に残った人たちは・・・そういえば、高校は12月7日以降休校になり、実際私たちが学校に戻ったのは2月に入ってからでした。休校の間、私たち学生の多くは働きました。
私はダン・イノウエ(現上院議員)と同じように、地域の救急ステーションで働くと申し出たのです。救急ステーションは、家からちょうど2ブロック位離れたところにあるトーマス・ジェファーソン・スクール(小学校)に設置されていました。私は(そこで働きたいと)自分の方から申し出たところ、補給係を任されました。そこで当時の私にしてみればものすごく沢山の給料をもらいました。あの時私は何歳だったか・・・まだ17歳か18歳のでしたからね。
補給係として一番面白かった経験は、政府がオワフの(住民)全員にガスマスクを配布すると決めた時のことです。政府は(日本人からの)ガス攻撃を警戒していましたから。そこで補給係としての私の仕事は、近所の住民にガスマスクを配ることでした。もちろん多くの住民達は喜んでガスマスクを受け取りにきましたが、驚いたのはある団体がやって来て「私達は『良心的兵役拒否者』」だと名乗って、エホバの証人だかなんだったのか、ガスマスクの使用は信念に反するからといって受け取らないのです。これには私も困惑して、スーパーバイザーにどうしたらよいか尋ねた記憶があります(笑)。
救急ステーションの初日2、3日はとても忙しかったです。停電がありましたしね。あと、本当は救急病院に行かなくてはならないような事故に遭った人を、私達が手当てした事がありました。誰かが彼のバイクに追突したか何かだったのでしょう。
日付: 2004年3月18日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ミシェル・マキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
リチャード・ヒロミチ・コサキ博士(1924年9月14日に生まれ)は、ハワイ州ホノルルで育ち教育を受け、人生の大部分をハワイで過ごしています。第二次大戦中は、陸軍情報部(MIS)に所属し指導教官として務めたほか、アメリカ占領下の日本で通訳として従事しました。1948年ハワイ大学の学部課程を卒業、その後、ミネソタ大学で修士号と博士号を取得しました
博士課程終了後、ハワイ大学で教鞭をとるために再びハワイへ戻った彼は、コミュニティ大学の副学長、西オアフ単科大学学長、学術事務局の副局長、ハワイ大学マノア校学長代理、東海大学ホノルル校学長など勤めました。また、イースト・ウェストセンターの設立やハワイ大学のコミュニティ大学システムの確立にも貢献しました。彼の最も好きな教育哲学は「話してください、私は忘れてしまいます。教えてください、私は覚えます。やらせてください、私は学びます。」です。
コサキ博士はミルドレッド(旧姓:ドイ)と結婚し、1962年に一人息子ランドルを授かりました。(2004年3月19日)
フォート・スネリング(英語)
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
マニラから東京へ(英語)
強制収容所の話がキャリアに影響(英語)
日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事
母の生い立ち (英語)
ハワイ州上院議員 (1924-2012)
日本人の母から見た日系人収容所
岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。
多文化の視野(英語)
三世の和太鼓奏者。マウイ太鼓のリーダー(1960年生)
若かりし頃の影響(英語)
漫画家(1953年生)
子供の頃に触れた文化(英語)
『負け組み 』-日本敗戦認識運動
負け組みの主要メンバー
アメリカへの揺るがぬ想いと日本への共感(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
人種差別のないハワイ(英語)
ハワイのビジネスマン、開発者
父の第二次世界大戦への出兵(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
収容所からアップランドへの引っ越し(英語)
フィリピン・ダバオの幼稚園(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)
戦後日本へ送還(英語)