ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1656/

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

(英語)私は日本語学校に通っていました。母が始めた日本語学校です。近隣の日系人家族は私たちだけで、近所にはオランダ系の人たちが住んでいました。彼らの裏庭にはゲストハウス用の一角があり、そこに仏教の僧侶が遠くから来てくれました。私たちの家は郊外にあり、日本語学校のメンバーは3人で、私の姉(妹)、私、もう一人が誰だったかは思い出せません。

結局母は、知り合いのいる別のお寺に通うようになりました。そこの僧侶とも知り合いで、彼らは日本語学校の開設に喜んで力を貸してくれました。私たちは保育所のある地域に住んでいましたが、彼らは遠くから来てくれました。最終的に資金集めに成功し、今も日本語学校がある場所に校舎を建てることができました。それから何年もたち私が子供を持ったとき、私の息子たちもその日本語学校に短期間通いました。


教育 日本語学校 言語 語学学校

日付: 2018年7月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: キラ・マツノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事。カリフォルニア州トーランスで生まれ、ハーバーシティで育つ。アジア系アメリカ人女性として初めて米連邦地検民事部に採用され、マイノリティとして初のトーランス教育委員会公選役員となり、裁判官として初めてロサンゼルス生物医学研究所の役員を務めた。現在ロス・パドリノス少年裁判所の裁判官を務めている。ワッサーマン判事は、多様性がある友好的な地域で育ったので、安心して日系アメリカ人でいることができた。現在は、日系アメリカ人コミュニティと関わりながら、多様性促進のために活動し、弁護士や判事へ助言を行っている。(2018年6月)

リチャード・コサキ

コミュニティ大学の教師として学んだこと(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

教師としての報酬(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

アート・シバヤマ

ペルーへの帰国が不可能ゆえに英語を習得(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

アメリカ人二世と帰米との野球ゲーム(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

キミ・ワカバヤシ

移住初期のカナダでの生活 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

ミツオ・イトウ

日本語学校 (英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

日本の男女別教育(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

サム・ナイトウ

ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

田中誠一

日本の音楽教育(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

アリス・スミダ

仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)

アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ビル・ハシズメ

日本の教育を受けさせるようにという父の遺言(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

バイロン・グレイサー

アートをサポートすることの重要性(英語)

イラストレーター、デザイナー

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長