(英語) 私が6歳になると、日本語の読み書きや日本の習慣、文化を学ばせるため、両親は私をカリフォルニア州グアダルーペの仏教寺の寮に預けたんです。6年間もシュギョウですね、勉学にいそしんだ訳です。子供たちはみんな6歳で親元を離れたんですよ。その年頃の子供たちにはそれはとても辛いことでした。自分の家に帰りたがってみんな毎日泣いていたんです。そしてやっと6年後に寮が閉鎖することになり、みんな家に帰ることができたんです。
家に帰った頃には私は12歳になっていて、それほど遠くないところにある地方の学校に通い始めたんです。学校までの1マイル(約1.6km)くらい歩きました。母がサンドウィッチを作ってくれたので、登校時間に間に合うようにそれを食べながら急いで通学してました。その学校では、1年生から8年生まで同じ先生が教えていました。ニューヨークから来たばかりの背が高くて大柄な先生で、休みの日になるとその先生の呼びかけで1品持ち寄りパーティーをしていました。感謝祭やハロウィン、クリスマスには親たちが料理を持ち寄り、それを食べ終えると先生が、「みんなで踊ろう。6歳の子たちもみんなでだよ。」なんて言ってね。それがきっかけで私はダンスを始めた訳ですけど、それがすごく楽しかったんです。先生の奥さんがピアノで伴奏をしてくれていました。
日付: 2005年12月6日
場所: 米国、オレゴン州
Interviewer: アケミ・キクムラ・ヤノ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター