ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1214/

CWRICによる調査結果(英語)

(英語)戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC)が最終的に発表した報告書には、「日系人に対する、憲法で定められた人権への著しい侵害」があったという記述がありました。賠償、謝罪、2万ドルの賠償金の支払いが妥当であるという提言がありました。強制退去・収容が行われた理由として、歴史的人種差別、戦時ヒステリア、そして政治的リーダーシップの欠落があったと書かれていました。それまで不可解だった様々なことがはっきりした瞬間でした。 そしてレポートは、私の言う「マジック・ケーブル」の問題をも解決してくれました。つまり、このことに関わる諸問題を取り出し、「では、このことについてはどうなんだ?」と聞かれたとしても、このレポートを見せて、「その問題なら調査済みだ。結局ばかげたことばかりだった」と、言うことが出来るわけです。このレポートは、大変大きな収穫でした。


政府 政治 リドレス運動

日付: 2008年7月4日

場所: 米国、コロラド州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ノーマン・ミネタ氏は、1931年11月12日に生まれました。第二次世界大戦中、ミネタ氏は家族と共にハートマウンテン強制収容所に収容されました。

彼の政治家としてのキャリアは、サンノゼ市会議員への任命に始まりました。副市長を経て、1971年サンノゼ市市長に就任しました。

ミネタ氏は、1975年から1995年下院議員を務め、1988年の「市民の自由法」(H.R. 442, the Civil Liberties Act of 1988、日系アメリカ人補償法)の成立を陰で支えました。この法案の成立により、政府は、第二次大戦中の日系人強制収容を違憲と認め、強制収容された日系人に公式に謝罪し、損害賠償を行いました。

2000年、ミネタ氏は当時のクリントン大統領による任命で初のアジア系アメリカ人内閣として商務長官に就任しました。翌年、ジョージ・W・ブッシュ大統領の任命により唯一の民主党内閣として運輸長官に就任しました。また、ミネタ氏は、この役職が制定された1967年以降最も長く同職を務めた議員でした。(2011年12月)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ピーター・アイロンズ

動かぬ証拠の発見 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ピーター・アイロンズ

学ぶべき教訓 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

今後すべきこと (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

バート・ナカノ

補償運動への参加者の増加 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事