(英語) 補償に関わる会議には、当初4人から6人くらいの参加者しか集まりませんでしたが、15人、20人と増えていきました。参加者たちは、様々な議題や、立てるべき戦略についてそれぞれ意欲的に発言しました。それはとても好ましいことで、まさに私たちが求めていたことでした。私たちは、日系コミュニティの生の声を求めていたのです。そして、私たちは実に多くの情報を得ることができました。参加者たちは、話し合った内容を責任をもって実行するよう、私たちに念を押しました。
また、追憶の日イベント(The Day of Remembrance)を開催すると、そういったイベントへの参加者は50人程度だったのが、聴聞会の開催後は、200から300人もの人々が参加するようになりました。聴聞会の前と後では、大きな違いがありました。
ですから、それほど多くの日系人が集結するようになった時点で、補償運動は始まっていたと言えます。つまり、運動への環境は整ったのです。運動の指導者たちは、環境さえ整えば人々に語りかけることができます。適切な環境がなければ、批判を恐れ、補償について口を開くことができません。でも、私たちの活動や聴聞会の開催によって、その環境は整えられ、人々は安心して補償運動に参加することができるようになりました。
日付: 1997年9月13日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: ラリー・ハシマ
Contributed by: Denshō: The Japanese American Legacy Project.