インタビュー
賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)
私は補償運動に反対の立場をとっていた1人でした。というのも、補償運動は、我々の犠牲を軽んじ、「私たちの辛い体験への代価を支払ってください」と、手を伸ばしているかのように私には感じられたからです。自分たちの犠牲を、そして身をもって体験した苦難を軽んずる行為だと思いました。それはまるで、戦時中に国を救うために人々がしたことに対して代価を求めているかのようでした。でも私のそういった考えは、連邦議会による委員会の設置法案が出た時に変わりました。ええと、委員会は何と呼ばれていましたっけ?
I*:The Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians (CWRIC:戦時市民転住収容に関する委員会)ですね。
そうでしたね。委員会によって、踏み込んだ内容の実情調査が行われ、事実関係が明らかにされた報告が、連邦議会へ提出されるだろうと思いました。そしてそれには、日系人に対し行われた、最悪な不正行為を明らかにする効力がありました。委員会の調査による後ろ盾があれば、当事者たちが「私たちの辛い体験への代価を払って下さい。」と訴えることとは全く違う意味合いを持たせることができたのです。そして委員会が承認され、ダニエル・イノウエ上院議員らによって設置法案が議会を通過した時、これで強制収容の全容が明らかになるだろうと思いました。当初、補償運動で最も重要視されていたのは、金銭的賠償でした。「我々に金を払ってくれ」、という訳です。ソルト・レイク・シティーで行われた、日系アメリカ人市民同盟の代表者会議で、クリフォード・ウエダ氏が最初に提案した金額は2万5千ドルでした。そしてそれは、「賠償(リパレーション)」と呼ばれており、「補償(リドレス)」とは全く違う意味の言葉でした。ですから私は、運動当初の彼らの考え方には同調できなかったのです。しかしながら、補償運動が、議会とアメリカの人々に謝罪を含めた補償を求める運動となった時、私は考えを変えたのです。
* 「I」はインタビュワー(アリス・イトウ)
日付: 2001年7月13日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: アリス・イトウ、ダリル・マエダ
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