https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/423/
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
(英語) 私の兄も姉も、みんな私がボブと結婚することには反対していました。ボブには4人妹がいて、私は体が丈夫な方ではないし、しょっちゅう病気になっていたので、「カドグチ家に嫁いで、一体どうやってボブの妹達の面倒を見ようっていうんだ?」なんてことを言われましたね。彼の妹達はまだ幼くて、母親は随分前に亡くなっていましたから。私の兄は、「ダメだ」の一点張りで、その話はもうするな、と言う感じでした。
でもその兄が収容所に送られることになったんです。姉と私達もグリーンウッドに移らなければならなくなって、もちろん皆は私も一緒に行くつもりでいました。それでボブに「グリーンウッドに行くことになったの」って言ったんですよ(笑)。そしたらボブはね、「まずお兄さんに先に行かせて、様子を見よう」って言うんですよ。でもね、それでも兄は、「ボブとは結婚するな。もし結婚したらお前は死んでしまうぞ。きっと自殺することになるんだ」と、こう言うんですよ(笑)。
まあ、とにかくその後私達もグリーンウッドに行く頃になって、「私は行かないから」と姉に言ったんです。「どうして?」と姉が聞くので、私は「ボブと結婚するからよ。」と答えたら、その時はもう誰も何も言えない雰囲気で、「わかった。あなたはここに残るのね。」と言ってくれたんですね。でも後で、「もしお兄さんが、あなたがボブと結婚するなんて知ったら、怒って勘当されるわよ」なんてことを言われましたね(笑)。
そんなことがあって、姉達は確かヘースティングス・パークに行くことになって、はっきりとはわかりませんが、へースティングス・パークに一度滞在した後、グリーンウッドに行ったんだと思います。それで家族の中で私一人だけが残りました。私とボブはバンクーバーへ行く特別許可を得て、結婚しました。ちょうどその日でしたね、私達が市役所に行くと、ラジオから東京爆撃のニュースが流れてきました。それは4月15日の出来事で、よく覚えていますよ。
日付: 2005年2月14日
場所: カナダ、トロント
インタビュアー: ピーター・ワカヤマ
提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館
シズコ・カドグチさんは二世の日系カナダ人女性。1920年9月29日にカナダのブリティッシュコロンビア州ポート・ムーディに生まれました。1930年に両親とともに日本へ移住し、日本で教育を受けました。カナダへは1940年に帰国しました。結婚後まもなくして第2次大戦勃発し、ヘースティングス・パーク、カナダの内陸タシュメへと強制移住させられました。タシュメを出た後は、トロントへ戻ります。彼女の夫はトロントの日本領事館で働いており、2人の子供を養子として迎えました。池坊に携わるようになり、その後は日本のフラワーアレンジメント芸術「生け花」を勉強するために日本を何度か訪問しました。また、彼女の夫とともにトロントにおける日系文化会館の設立(1950年代)にも貢献しました。 (2005年2月15日)
*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。
別々に収容された家族(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
家族優先(英語)
Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)
白人家庭に受け入れられて(英語)
戦前のワシントン州スポケーンで家族経営していたホテルでの鉄道労働者たちとの思い出 (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)
日本文化への興味 (スペイン語)
日系アルゼンチン人、三世
日本語と価値観をもとに育つ(英語)
(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世
未婚を貫く (英語)
南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)
私は日本人、ペルー人・・・私は誰?(スペイン語)
詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)
アメリカでの生活に再び溶け込む (英語)
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
コミュニティの若い人達を支援する (英語)
父から習った3つの教訓(英語)
ハワイのビジネスマン、開発者
収容所で姉を失くす(英語)
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
J・アンソニー・クラインからの連絡(英語)
アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)
家族に認められたこと(英語)
漫画家(1953年生)
父の犠牲(英語)
日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)