ディスカバー・ニッケイ

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10代のサトウキビ畑で働いた経験が、スポーツ選手としてのトレーニングに役立つ

私は、マウイにおったころ、そうね、だいだい12歳か14歳の時、サトウキビの畑で働いて、そういった仕事あまり好きじゃなかったけど、でもやっぱり、その頃、あまりお金なくって、何とかして、お父さんとお母さんを助けてあげないといかんかったから。だから一生懸命働いてやれましたけど。まあそんなことをやって(お陰で)、後から野球とかフットボールやった時すごく助かった。そんなきついような仕事やって、野球とフットボールやった時―フットボールも野球もすごく苦しいスポーツだったから―だからこれからそんなことをやっぱり忘れないで、今でも78歳だけど、これはもう60~65年前のことだけど、今のときでも、今でも、やっぱりぜんぜん忘れてない。

まあ日本でも昔野球やった時、大分苦労しましたけど、その苦労をなんとかして頑張って、やって、まあ今、日本の野球のおかげで、僕の人生もだいぶ変わりました。


野球 アイデンティティ

日付: 2003年12月16日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アート・ハンセン、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)氏は1925年ハワイのマウイ島で生まれました。彼がスポーツ選手として世間で初めて注目を浴びたのは、1944年オワフ島に移った後、ホノルル市のアメリカンフットボール大会でファーリントン高校を初優勝に導いたときでした。第2次世界大戦後には、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのランニングバックとしてプロ契約を結び、アジア系アメリカ人初の快挙となりました。

しかし、ヨナミネはフットボールでの怪我をきっかけに野球への転向を決意しました。パシフィックコースト・リーグ(マイナーリーグ)のサンフランシスコ・シールズと契約中、監督から日本で野球をするよう勧められ、1951年、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団しました。通算打率3割を越える記録を残したヨナミネは、日本の野球史上最も優れた先導的なバッターとしても知られ、首位打者を3度獲得、1957年にはセントラルリーグの最優秀選手賞(MVP)にも選ばれました。

現役引退後は、コーチ、スコアラー、監督として功績を残し、38年間に及ぶ野球人生に幕を閉じました。激しいスライディング、セーフティーバント(バントヒット)、フライ球のダイビングキャッチなど、日本プロ野球界に本場アメリカ仕込みのを持ち込んだことで評価され、初めはファンの野次の的であったが、後に高い人気を集め、1990年には日本野球界の殿堂入りを果たしました。 (2003年12月16日)

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)

演歌歌手(1981年生)

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ケニー・エンドウ

ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)

和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)

ビンス・オオタ

東海岸とロサンゼルスの違い(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

田中誠一

アメリカの太鼓と日本の太鼓の違い(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

エンセン・井上

日本社会への突然の受け入れ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

リング名「大和魂」

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)