ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/327/

家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)

(英語) 僕が12才か14才くらいの頃、子供たちは皆、夏の間はさとうきび畑で働いてましたね。夏中2ヶ月か2ヵ月半くらい働いて、できるだけたくさんのお金を稼ごうとしてました。当時は一日中働いてもたった25セントにしかなりませんでしたけどね。それでも、僕たちは皆働いて、家計を手助けしなくてはいけなかったんです。父はさとうきび畑で一日中、12時間から14時間働いても、月収70ドルとか80ドルくらいにしかならないんです。子供が7人もいれば、足りないですよね。だから夏の間は僕の兄(弟)も僕も姉(妹)も、みんなできるだけたくさん稼いで家計を助けようとしてました。だから僕もさとうきび畑で働いていましたね。その時は、朝の4時に起きて、畑に出て、草刈りをしてました。草で手を切ったりするし、その仕事は大嫌いでしたけどね。


家族 農業

日付: 2003年12月16日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アート・ハンセン、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)氏は1925年ハワイのマウイ島で生まれました。彼がスポーツ選手として世間で初めて注目を浴びたのは、1944年オワフ島に移った後、ホノルル市のアメリカンフットボール大会でファーリントン高校を初優勝に導いたときでした。第2次世界大戦後には、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのランニングバックとしてプロ契約を結び、アジア系アメリカ人初の快挙となりました。

しかし、ヨナミネはフットボールでの怪我をきっかけに野球への転向を決意しました。パシフィックコースト・リーグ(マイナーリーグ)のサンフランシスコ・シールズと契約中、監督から日本で野球をするよう勧められ、1951年、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団しました。通算打率3割を越える記録を残したヨナミネは、日本の野球史上最も優れた先導的なバッターとしても知られ、首位打者を3度獲得、1957年にはセントラルリーグの最優秀選手賞(MVP)にも選ばれました。

現役引退後は、コーチ、スコアラー、監督として功績を残し、38年間に及ぶ野球人生に幕を閉じました。激しいスライディング、セーフティーバント(バントヒット)、フライ球のダイビングキャッチなど、日本プロ野球界に本場アメリカ仕込みのを持ち込んだことで評価され、初めはファンの野次の的であったが、後に高い人気を集め、1990年には日本野球界の殿堂入りを果たしました。 (2003年12月16日)

ジョージ・アリヨシ

子供たちと過ごす時間 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジーン・アリヨシ

結婚 (英語)

ハワイ州知事の元ファーストレディー

ジーン・アリヨシ

叔母との養子縁組の可能性 (英語)

ハワイ州知事の元ファーストレディー

カズオ・フナイ

米国での最初の仕事

一世実業家(1900-2005)

ジェームス・ヒラバヤシ

親子の触れ合い (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

ゴードン(兄)から聞いた刑務所での両親の経験 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

笠原ハルオ

日本語とハワイ語によるハワイの耕地での伝統的な労働歌(ほれほれ節)

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

バーバラ・カワカミ

ハワイへ再移住 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

プランテーション労働者の服 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

父の死後の苦しい生活 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

フィリピン人独身男性の衣服を洗濯 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

兄の出兵、そして生き残ること (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

お手伝い (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

ボブ・キヨシ・オカサキ

日本の妻の家族(英語)

日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)

山野愛子ジェーン

お正月料理(英語)

日本在住、カリフォルニア生まれのビジネスウーマン。祖母である山野愛子の後を継ぎ、美容界で活躍。(1964年生)