ディスカバー・ニッケイ

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フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

(スペイン語)これは私の想像なんですけど、第二次世界大戦が勃発したときアメリカ政府は既に監視が必要な国民(外国人)をすでにマークしていたと思います。コロンビアには、ドイツ人、イタリア人、日本人が住んでいたので、これらの国籍の世帯主はクンディナマルカ郡のフサガスガー収容所に連れていかれ収容されました。でもその家族は、今までと同じところに住むことが許され、土地所有も認められていました。

祖父は連行され、祖母はその土地に残ることになったんです。収容当初祖母は祖父に日本語で手紙を書きました。それには、「どこどこに行かなくてはならない」と書いてあり、また、自分のことは心配なくてもいいとありました。これは、祖父の収容所からの外出許可、もしくは収容所での面会許可を得るための、祖母の策略だったのです。

しばらくすると、祖母は祖父にスペイン語で手紙を書くようになったので、看守たちも手紙に何が書かれているのか、目を通すようになりました。そこには、「リリーちゃんが大変な病気なのとか、どうにもならないので助けて欲しい」といったことが書いてありました。実際は、そのような事実はなかったのですが、緊急事態であると述べてあったのです。その結果、祖父は15日間の外出許可が認められ、母(いや祖母)のもとへ一時的に戻り、また収容所に戻ったそうです。

収容所生活はこのように、かなり自由な面もあったようですが、常に警察の監視や監督はありました。


コロンビア 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2019年9月22日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

モニカ・タイシャーは、1974年にコロンビアのカリ市で一世の父親と二世の母親の間に生まれました。 彼女の家族と親戚は、コロンビア最大のカリ日本人コミュニティーに積極的に関わっていました。 東ヨーロッパ出身のユダヤ系米国市民と結婚した後、渡米しました。 彼女は、夫と娘たちとともにコロンビアで休暇を過ごし、コミュニティーのイベントに参加しています。(2020年5月)

 

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)