ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1311/

ポストンへの到着(英語)

(英語)到着した時のポストンは、暑くて埃っぽかったです。収容者は、この部屋位のサイズの部屋をあてがわれました。バスを降りた時に麻袋を手渡され、「それを持って裏へ行け」と言われました。袋を受け取り、ずいぶん大きな袋で、中に藁を詰めてマットレスにするようにということでした。あるのは小屋とそのマットレスと支給された毛布だけでした。それ以外は、服を掛ける場所も無く、座るものさえありませんでした。トイレは、1区画に1つしかありませんでした。35のトイレとシャワーだけで、1つのスペースの中にシャワーヘッドが全て並んでいました。そして、洗濯はシャワー室のたらいの中でしなければなりませんでした。


アリゾナ州 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2012年8月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: シンディ・ナカムラ、エミリー・アンダーソン

提供: 南カリフォルニア大学「Hapa Japan Database Project」、全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター共催

語り手のプロフィール

テリー・ジャンゼン氏は、1930年7月15日、東京で生まれました。ジャンゼン氏は日本人のハーフで、日本と米国両方で育ちました。第二次大戦中、彼女はポストンの強制収容所に6ヶ月間収容されました。その後、彼女は教員となり、ワシントン州アダムス郡民主党委員会の議長も務めました。 (2013年4月 更新)


*シンディ・ナカムラ氏とエミリーアンダーソン氏によるこのインタビューは、展示「Visible & Invisible: A Hapa Japanese American History」(目立つ、目立たない:日系アメリカ人“ハパ”の歴史)のために行われました。この展示は、南カリフォルニア大学による「Hapa Japan Database Project」との共催により、ニットータイヤ「Life History Project」の協力を得て開催されています。撮影はエヴァン・コダニ氏。

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)