ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1120/

日本語をより学ぶことになったきっかけ

普通家で、両親たちは日本語しか使わなかったし、それから、天野と結婚しましたら、ますます日本語でしょ。で、まず天野とお仕事しましたのは、あの人ね、自分はスペイン語を読むにも英語を読むにも、すっごく手間隙かけて読まないとあまり意味が分からないし、そんなに上手じゃないから、誰か若い人で読める人があったらっていうので、岡本さんに頼んだらしいんですね。

で、私、英語はできないけれども、なぜか岡本さんが、日本語もできないのに岡本さんが私って言ったんですね。だから、必死でもって(笑)。そんな仕事やったことないのに・・・女学校を出てまもなくね。私、小学校だってろくに日本語やってません。もう戦争で(?)全然。そのあと、私よりか上の人たちは、家政女学校ってあったんですね。あの人たちは上手ですよ。私は、もういいかげんな。でも、家で日本語だったし、天野と結婚して、日本語になったし。それから、日本からのお客様が多かったからでしょうか。でも、私、全然勉強してないの。

I*: じゃあどっちのほうが楽ですか?スペイン語より日本語のほうが楽?どっちのほうが楽?

まぁ、本当にお行儀悪いけども、えへっ、両方使ったほうがいいんですけども。うーん、どうでしょうかね。自分でもよく分かんない(笑)。どっちもできないってことですよ。

*Iはインタビュワー(アン・カネコ)


世代 言語 二世 ペルー

日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

天野美代子(旧姓:渡辺)はリマ市生まれの日系二世。1954年、実業家・アンデス文明研究家の天野芳太郎氏と結婚。1964年5月には、故夫芳太郎氏とともに、リマ市ミラフローレス区レティロ街に天野博物館を竣工し、8月に開館。現在は、故夫の意思を引き継ぎ、芳太郎氏の私蔵をもって設立され、チャンカイ文化の研究で知られる天野博物館の館長を務める。 (2009年10月)

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ポーラ・オヨス・ハットリ

ひとつの言葉で考え、別の言葉で生活(スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

アイデンティティを決める重要な要素としての日本語 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

移住当初、言葉で苦労

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

アルゼンチンでの初めての仕事(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

スペイン語の学習(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ピーター・ミズキ

米国国籍を持つ日本人の妻 (英語)

在日三世・剣道家

二木秀人

野田良治先生による日葡辞書

一世教育者(1911年生)

ジョニー・モートン

祖母との会話 (英語)

プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)

クリフォード・ウエダ

日本語学校(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ヘンリー・須藤

日本に移住するまで日本語を話さなかった (英語)

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

セドリック・シモ

日本とアメリカ両国の影響を受けて育つ(英語)

第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)

ヘンリー・須藤

無我夢中で頑張った戦後

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

阪根 博

戦後ペルーへ戻った理由

天野博物館事務局長(1948年生)