ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/817/

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

(スペイン語) 1903年にパラグアイ政府は黒人と黄色人種の入国を禁止する法を成立しましたが、少しして、その法は撤廃されました。1919年にパラグアイと日本の間で外交関係が始まりました。でも、日本人移民がすぐにパラグアイへやってくることはなく、移民の受け入れが始まったのは1936年になってからでした。もちろん、戦争になった時パラグアイはアメリカ側に立たなければならず、日独伊枢軸国に対して国交断絶を宣言しました。

が、ここで重要な点は、パラグアイ政府が常に1919年の条約を尊重したことです。そこにはパラグアイと日本の間には恒久的平和と友好関係を保たなければならないと謳われていました。パラグアイ政府は常にそれを尊重しました。当時、侮辱もなければ、強制収容所もなく、送還もありませんでした。そんなものは一切ありませんでした。もちろん、アメリカの大義を支持していましたから、学校を閉鎖したり、外交官らを日本に帰すことはありましたが。でもそれだけです。あとはすべてそのままでした。何の問題もありませんでした。そういうわけで、私たちは幸運だったと思います。パラグアイ政府は私たちに敬意を払ってくれました。


移住 (immigration) 移住 (migration) 第二次世界大戦

日付: 2005年10月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

「エミ」の名で知られるエミリア・ユミ・笠松女史は、パラグアイの最初の日本人移住地であるラ・コルメナで生まれ育ちました。彼女の父はその移住地の創設者で、管理者でもありました。彼女は幼少時を深い愛に満ちた心で思い出します。その頃受けた日本の教育はパラグアイの教育が混じったもので、厳しい規律の中で育ちました。未来の人生の希望や計画の基礎は幼少時にはぐくまれました。そして、今パラグアイの首都でそれらを実行しています。 笠松女史は国立アスンシオン大学哲文学部と同大学院を卒業しました。その後、パラグアイやアメリカ大陸の日本人移民について多くの本をスペイン語で出版し、それらは英語や日本語に訳されています。彼女の著書には、『パラグアイの日本人』(1987)、『パンアメリカ日系協会の歴史・アメリカ大陸の日本人の存在と移民』スペイン語と英語版 (2005)、アケミ・キクムラ編 『New World, New Lives』(2002) (日本語版: 『日系人とグローバリゼーション』(2006)) と『Encyclopedia of Japanese Descendants in the Ameircas』(2002) (日本語版:『アメリカ大陸日系人百科事典』)などがあります。 笠松女史はCentro Social de Beneficencia Japonesa en el Paraguay(パラグアイ日系社会福祉協議会)の会長(2006~2008)と、Asociación Paraguayo Japonesa(パラグアイ日本人会」の第一副会長(2005~2008)を務めています。又、パラグアイ日系二世の団体であるCentro Nikkei Paraguayo(パラグアイ日系センター)の館長、第6回パンアメリカ日系大会の議長、パンアメリカ日系協会のパラグアイ代表(1987~2007)などを歴任されました。現在は「人造りセンター」副館長で、学術文化コーディネーターの役割を担っています。(2007年5月23日)

Fujima Kansuma
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藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

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姉妹4人が国際結婚

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Aiko Yoshinaga Herzig
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制度化されたシステムの悪影響(英語)

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アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

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Francis Y. Sogi
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1941年12月7日の記憶(英語)

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犯人探し (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

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