ディスカバー・ニッケイ

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ブラジル社会に恩返し-不足のテクニコを育成

われわれこの、会社(JACTOグループ)が大きくなったんは、儲けさせてもらったんは、みな百姓なんだと。で、その儲けの一部は百姓に返さなきゃいかんと。とにかく、土地をね、使い切ってしまったんじゃダメなんだと。必ず肥料をやらなきゃいかんと。その肥料の意味でですね、どうしたら言いかといろいろ考えたんですけども、結局、今百姓、ブラジルの百姓さんが、あの貧乏してるのは、いわゆる土地でもない、気候でもない。土地はもういい土地があります。雨は十分降る。天気はだいたいいいと、気候はだいたいいいと。足りないのはですね、いわゆる技術なんですね。技術ってね、いろいろ難しい技術はね、なんでしょうけどね、それを実行する人がおらん。テクニコ(技術者)がおらんわけです。アグロノモ?(農業技師)はたくさんおるわけです。テクニコが、テクニコがおらん。そのテクニコをですね、田舎に帰すのが、私一番いい方法じゃないかと。で、私の学校の生徒は全部田舎へ帰れと。町にはおるなと。ほとんどみな田舎へ帰っております。


農業 ブラジル ビジネス 経済学 農業 (farming) 経営

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

西村俊治氏は、1932年21歳の時、日本の経済状況をみかね、新天地を求めブラジルへ移住を決意しました。移住当初は、持ち前の忍耐を持って耕地で働きました。まもなくして1年間学校へ通うのに十分な資金もたまり、サンパウロ市へ上京しました。その後、ブラジルの工場を転々とし、最終的にはポンペイアへ落ち着きました。

西村氏は、生活のためさまざまな職業を経験・挑戦してきました。農機具の特許取得がきっかけに、JACTOグループを創設しました。当時のブラジルは海外からの農機具に頼っていましたが、輸入品よりも質のよいものを提供しようと、農機具の開発に力を注いできました。JACTOグループがここまで大きくなったのは、ブラジルのおかげと、職業訓練学校を設立しました。農機具の開発だけでなく、それをうまく使える技術者を育てることが、国の発展の第一歩であるとし、農業専門家を育てるのに力を注いできました。(2007年6月22日)

BJ・コバヤシ

家族経営に携わることへ疑問なし(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者

天野美代子

天野芳太郎の日本でのビジネス

天野博物館館長 (1929年生)

ハルノリ・オダ

園芸ビジネスを学ぶ(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

阪根 博

天野芳太郎の南米進出

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

研究のためにビジネスに力を入れた天野芳太郎

天野博物館事務局長(1948年生)

ハルノリ・オダ

アメリカ生活の始まり(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

事業の拡大(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

人生哲学(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ジミー・コウ・フクハラ

家族経営の種苗会社(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

ジミー・コウ・フクハラ

除隊と種苗業の再開(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

大友 八郎

ミズーリ州でのビジネス

溶接業を営む新一世(1936年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

工場労働者から自分のビジネスを持つまでの道のり(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

トム・ユキ

第二次大戦中は父のビジネスパートナーが農業ビジネスを管理した(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)