ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/673/

両親の強制収容について多くを知らぬまま成長 (英語)

(英語) 僕は、両親がある時期政府によってどこかへ連れて行かれた経験があり、強制収容が彼らの背景に影を落としているということをいつも感じていました。でも当時まだ若かった僕らの生活は、スポーツや学校を中心に回っていたし、両親はと言えば収入を得て生活するということに一杯一杯で、その話をする必要がなかったんですね。いえ、必要性がなかったという訳ではなくて、ただその話はしなかったんです。強制収容について知ったのは、両親から多少話を聞いたり、ところどころは学校からで、高校の歴史の教科書には2、3段に渡って書いてある程度でした。その後大学でもう少し学びました。

でも、僕がそのことについて本当に疑問を持つようになったのは公民権運動が高まりを見せた頃からです。南部ではデモが起こり、それが各地に飛び火するようになって、抗議の座り込みや平等への呼びかけが盛んになっていった頃ですね。このことは民族意識の高まりをも助長するようになり、1967年には、よりアメリカナイズされた日系アメリカ人を筆頭としたアジア系アメリカ人の各グループが、主にカリフォルニア大学ロサンゼルス校で強制収容所をめぐる問題やアイデンティティについて議論し始めたんです。そしてその頃、僕は両親に収容所の話をしてみたことがあるのですが、ほんの少し教えてくれるだけでそれ以上は話したくないという様子でした。


公民権 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2003年2月8日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ、マーガレット・チョン

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project

語り手のプロフィール

デール・ミナミ氏は、1946年10月13日カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、同州のガーディナで育った日系三世の男性です。1968年、南カリフォルニア大学で政治学の学士号を取得し、卒業時(学業優秀者に贈られる)magna cum laude(優等賞)を受賞、同時にPhi Beta Kappa(全米最古で終身会員制の優等学生友愛会)の会員資格を授与されました。そして1971年、カリフォルニア大学(バークレー校)Boalt Hall School of Lawで法学修士号を取得しました。ミナミ氏は、Asian Law Caucus, Inc.、Asian Pacific American Bar Association of the Greater Bay Area、The Asian Pacific Bar of California, the Coalition of Asian Pacific Americansの共同創立者です。

ミナミ氏は、アジア太平洋系アメリカ人およびマイノリティーの公民権に関わる(数多くの)重要な訴訟に関わってきました。そのひとつに、コレマツ対アメリカ合衆国があります。これは、当初米連邦最高裁が(日系アメリカ人を隔離し収容することへの合憲性を)支持するという重要な判決を下し、40年前にコレマツ氏が、第2次世界大戦中に日系アメリカ人に出された退去命令を拒否した罪で有罪となったのを覆す訴訟でした。その他には、1)アジア太平洋系アメリカ人(全体)を代表してアジア太平洋系アメリカ人が起こした初の雇用をめぐる集団訴訟、United Pilpinos for Affirmative Action対California Blue Shield(保険機関)。2)アジア太平洋系アメリカ人を代表し、ワシントン州立大学にアジア系アメリカ人研究プログラムを開設するよう要求した集団訴訟、スポケーンJACL(日系アメリカ人市民同盟)対ワシントン州立大学。3)終身在職権を不当に却下されたことを申し立てたことで、教育の場で差別があると公に報道された為、最終的に学校側から終身在職権を与えられた、ナカニシ対UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)など、重要な訴訟に関わってきました。

ミナミ氏は、カリフォルニア大学バークレー校およびカリフォルニア州オークランドのミルズカレッジで教えた経験があり、State of California's Fair Employment and Housing Commission、State Bar of California(カリフォルニア州法曹協会)、およびJudicial Nominees Evaluationのコミッショナーを務め、更にAttorney General’s Asian/Pacific Advisory Committeeの委員長、Senator Barbara Boxer’s Judicial Screening Committeeのメンバーを務めています。また1994年には、クリントン大統領の任命によりCivil Liberties Public Education Fund Commissionの委員長を務めました。現在は、サンフランシスコを拠点とするミナミ・リュー・タマキ法律事務所のパートナーとして、人身傷害およびエンターテイメントの法律を専門に活躍しています。(2003年2月8日)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ジョージ・アベ

収容所の中で才能を磨く (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

スー・エンブリー

制度の中で(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

正義への戦い(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

ピーター・アイロンズ

強制収容を知る (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

波風を立てるな (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

バート・ナカノ

打ちのめされた誇り (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

パインデールとツール・レイク強制収容所の回想(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

公民権運動への積極的参加(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

補償運動後の日系アメリカ人の未来(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ダニエル・K・イノウエ

アメリカ政府への反応 (英語)

ハワイ州上院議員 (1924-2012)

フランク・エミ

国家への忠義に関する質問 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)