ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/348/

収容所を出ることへの懸念(英語)

(英語)私がなかなか収容所を離れようとしないので、彼らが私を早く収容所から追い出そうと「あなたの2人の子供達は収容所を出ています、あなたも早く出ていって下さい」と言ったのです。私は「私の父と母をここに2人だけで残していくわけにはいきません」と言うと、向こうは「大丈夫、ハンクがちゃんと2人を迎えにきますから」と言いました。娘は収容所を出てシカゴに行きたいと言いましたが、私はシカゴに行きたくなかったので、娘とものすごい言い争いになりました。私はシアトルに帰りたかったのですが、娘は大都会に行きたかったのです。娘はもう完全に(シカゴへ)行く気になっていたので、それはすごい言い争いをしました。

そして、私は収容所の監督委員会に行かなくてはなりませんでした。彼らは私を収容所から早く出したかったので、すごく嫌な雰囲気でした。そんな状況で私に勝ち目があるわけがありませんでした。 それでも私は収容所を出たくなかったのです。ひとつには、出るのが怖かった・・・だってそうでしょ?お金も全然ありませんし、知らない街で仕事をした経験もないのですから。それに何よりもシカゴという街が好きじゃなかったのです。でもついに私も収容所から出され(シカゴに)行かないといけなくなりました。


投獄 監禁 再定住

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

George Yamada
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ジョージ・ヤマダ

強制収容所に送られる大勢の日系人を乗せた汽車との遭遇 (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

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Margarida Tomi Watanabe
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マルガリーダ・トミ・渡辺

移民収容所へ移送された日本人へ防寒着を寄付

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

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Margarida Tomi Watanabe
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マルガリーダ・トミ・渡辺

警察での取り調べ

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

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Yumi Matsubara
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松原由美

日本人の母から見た日系人収容所

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。

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Henry Shimizu
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ヘンリー・シミズ

へースティング・パーク収容所から抜け出して (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

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Venancio Shinki
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ベナンシオ・シンキ

戦時中身を隠していた父 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

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Venancio Shinki
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ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

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Gordon Hirabayashi
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ゴードン・ヒラバヤシ

良き息子として(英語)

大統領令9066の合憲性について抗議(1918-2012)

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Gordon Hirabayashi
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ゴードン・ヒラバヤシ

憲法の無視(英語)

大統領令9066の合憲性について抗議(1918-2012)

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Sue Embrey
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スー・エンブリー

若かりし頃の視点 (英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

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Cherry Kinoshita
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チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

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Bill Hosokawa
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ビル・ホソカワ

記者の責任 (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

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Peter Irons
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ピーター・アイロンズ

学ぶべき教訓 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

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Chiye Tomihiro
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チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

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William Marutani
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ウィリアム・マルタニ

パインデールとツール・レイク強制収容所の回想(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

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