ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

スー・エンブリー

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

若かりし頃の視点 (英語)

(英語) 強制収容所に送られた当時、18歳か19歳くらいだった私たちは、まだとても未熟でした。政治的にとても無知で、憲法を読み、権利章典(合衆国憲法中の人権保障規定のこと)について学んではいましたが、それを応用し、自分自身の力にする、という考えにまでは至りませんでした。まだまだ未熟だったのです。私たちが強制収容の事実を見直すようになるまで、長い時間を要した原因はそこにあると思います。収容所への巡礼の旅を経て、日系人は強制収容を単なる個人的体験と捉えるのではなく、憲法に関わる問題として見直すことができたのだと思います。


日付: 1997年9月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: グレン・キタヤマ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

スー・クニトミ・エンブリー氏は1923年、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。戦前エンブリー氏は、リトル東京で育ちました。そして19歳で他の大勢の日系人と共に、マンザナー収容所に強制収容されました。そこで彼女は、収容所新聞、マンザナー・フリー・プレス紙の編集者となります。戦後エンブリー氏は、中西部で数年を過ごし、1948年にカリフォルニアに戻りました。カリフォルニアで結婚したエンブリー氏は、その後教職に就きました。

1969年、エンブリー氏は、最初のマンザナー巡礼の旅の企画に参加し、その直後、共同でマンザナー委員会を立ち上げました。委員会は、マンザナーがカリフォルニア州の史跡となるよう、そしてゆくゆくは国の史跡認定を受けられるよう先頭に立って働きかけました。

エンブリー氏は、強制収容について最初に沈黙を破った数少ない日系二世の一人でもありました。彼女は過去を忘れ去ることよりも、強制収容の事実を人々に伝え、教育することを選び、日系三世や四世に自身の体験を伝え始めました。その後彼女の活動は、マンザナーに教育センターの立ち上げを提案することにまで及びました。教育センターは、2004年に開館し、スー・エンブリー氏は、2006年に83歳で亡くなりました。 (2008年4月15日)

ジェームス・ヒラバヤシ

10代での収容所生活 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ユリ・コチヤマ

白人と同じ権利を求めて(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

立ち退き命令を知らないカリフォルニア人(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

集合センターの状況(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

E・スタンリー・ジョーンズによる集合センターの訪問(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

隠蔽されたキャンプでの出来事(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

仕事熱心な一世(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

逮捕された父(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

収容所のポジティブな側面(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

竹下幸男

JACLとの関わり(英語)

「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)

グレース・ウエハラ

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

ロイ・H・マツモト

集合センターでの職探し(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・H・マツモト

アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

パインデール集合センターでの生活状況(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイク収容所での貝殻による手工芸品作り(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)