https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1745/
米国在住の日系コロンビア人(1974年生)
(スペイン語)これは私の想像なんですけど、第二次世界大戦が勃発したときアメリカ政府は既に監視が必要な国民(外国人)をすでにマークしていたと思います。コロンビアには、ドイツ人、イタリア人、日本人が住んでいたので、これらの国籍の世帯主はクンディナマルカ郡のフサガスガー収容所に連れていかれ収容されました。でもその家族は、今までと同じところに住むことが許され、土地所有も認められていました。
祖父は連行され、祖母はその土地に残ることになったんです。収容当初祖母は祖父に日本語で手紙を書きました。それには、「どこどこに行かなくてはならない」と書いてあり、また、自分のことは心配なくてもいいとありました。これは、祖父の収容所からの外出許可、もしくは収容所での面会許可を得るための、祖母の策略だったのです。
しばらくすると、祖母は祖父にスペイン語で手紙を書くようになったので、看守たちも手紙に何が書かれているのか、目を通すようになりました。そこには、「リリーちゃんが大変な病気なのとか、どうにもならないので助けて欲しい」といったことが書いてありました。実際は、そのような事実はなかったのですが、緊急事態であると述べてあったのです。その結果、祖父は15日間の外出許可が認められ、母(いや祖母)のもとへ一時的に戻り、また収容所に戻ったそうです。
収容所生活はこのように、かなり自由な面もあったようですが、常に警察の監視や監督はありました。
日付: 2019年9月22日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
モニカ・タイシャーは、1974年にコロンビアのカリ市で一世の父親と二世の母親の間に生まれました。 彼女の家族と親戚は、コロンビア最大のカリ日本人コミュニティーに積極的に関わっていました。 東ヨーロッパ出身のユダヤ系米国市民と結婚した後、渡米しました。 彼女は、夫と娘たちとともにコロンビアで休暇を過ごし、コミュニティーのイベントに参加しています。(2020年5月)
アメリカへの揺るがぬ想いと日本への共感(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
父の第二次世界大戦への出兵(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
収容所からアップランドへの引っ越し(英語)
フィリピン・ダバオの幼稚園(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)
戦後日本へ送還(英語)
真珠湾攻撃後のハワイ生活(英語)
ハワイ出身のウクレレ奏者(1934年生)
カリフォルニアに来た時のこと (英語)
アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)
フィリピンでの生活(英語)
陸軍情報部隊員と共に日本語を学ぶ(英語)
マンザナーでの迷彩ネット織り
ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)
ミスコミュニケーション(英語)
手紙を書く(英語)
キャンプでアートスキルを養う
ロサンゼルスに戻る
第二次世界大戦中の祖父の取り調べ(英語)
ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)