ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1345/

造園業から園芸場経営へ(英語)

(英語)僕は、庭師見習いとして3日間働きました。どういうことかというと、3人の庭師の友人に1日ずつ付いて仕事を見せてもらいました。3日間の見習いで、即席の庭師になりました。そして、ガーデングローブ園芸場でお客さんを紹介してもらい、週3日、庭師の仕事を始めました。その後、担当する庭が自然に増えていきました。働き始めた当初はすごく怖かったですよ。3日間友人の仕事を見ていただけで、経験は皆無でしたから。

そして、週3日は庭師の仕事を継続し、経費や食費、生活費は賄えるようになりました。残りの4日間は、パンジーの栽培を始めるための庭の掃除や準備に当てました。そんな風に仕事をするようになり、3日間は庭師として、4日間は自分の庭で働きました。そして段階的に栽培を始め、12月にパンジーが開花し、見栄えがするようなパッケージに梱包しました。店に置いてもらうものは花かごに入れました。この仕事が忙しくなってきたので、庭師の仕事は辞めました。庭師を辞めてからは、一度も戻っていません。辞めた後は、パンジーの栽培に集中しました。パンジーを育てている間、儲けを狙って他の植物も育てようとしましたが、うまくいきませんでした。利益が出たのはパンジーだけでした。そしてそのお金で苗床の用具を買い、しだいに園芸場らしくなっていきました。


農業 ビジネス 経済学 ガーデニング 世代 園芸 移民 移住 (immigration) 一世 日本 経営 移住 (migration) 育苗業者(園芸) 戦後 新一世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2012年2月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハルノリ・オダさんは、北海道で生まれ育ちましたが、第二次世界大戦後、日本を訪れていた日系二世の女性と出会い、結婚し、米国に移り住みました。オダさんはアメリカを嫌悪していましたが、妻のミチコさんに、アメリカの方がより多くの成功の機会があると説得され、そのチャンスにかけてみることにしました。英語力には限界があったものの、オダさんは、園芸業で身を起こすことに成功しました。彼は、この仕事であれば、自分の能力で最大限の成功を手にすることができるだろうと考えたのです。最終的に、オダさんは自らの園芸場の経営を始め、事業を拡大し、その後、オレンジ郡で不動産開発業者として大成しました。オダ氏は、2016年12月14日、91歳で亡くなりました。(2016年12月)

高塩 明

ボーディングハウスでの荒れた生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

トム・ユキ

カリフォルニア州サリナスに移民として渡った家族(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

トム・ユキ

第二次大戦中は父のビジネスパートナーが農業ビジネスを管理した(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

キシ・バシ

両親は新一世(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)