ディスカバー・ニッケイ

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渡米初期のアメリカの印象(英語)

(英語)フラミンゴ・カンパニーで最初の仕事に就いた時、英語はさっぱりわかりませんでした。この会社には飛び込みで行きましたが、面接をしてくれました。いろいろ質問されましたが、全然答えられませんでした。でも僕はラッキーで、日系二世の人がいたんです。彼が僕に面接のようなことをしてくれましたが、彼もそんなに日本語が上手ではなかったので、何と言うか、カタコトの面接でした。でもなんとかなって、支配人が僕を雇うことを決めてくれました。

家に帰る途中、僕は、もしかするとアメリカっていう国は、自分が思っていたような国ではないかもしれないと思いました。彼らは僕が誰か知りませんでしたし、その時が初対面でした。そして僕は英語を話せませんでした。僕が良い働き手かどうかもわからないのに、雇ってくれたのです。これには一考の価値がある、と思いました。

最初にお話した考え方から変化し、僕は初めて、もしかするとこの国は良い国なのかもしれないと思いました。そして、アメリカについて考え始めました。この国について、初めて深く考えてみようという気になったのです。


世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) 戦後 新一世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2012年2月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハルノリ・オダさんは、北海道で生まれ育ちましたが、第二次世界大戦後、日本を訪れていた日系二世の女性と出会い、結婚し、米国に移り住みました。オダさんはアメリカを嫌悪していましたが、妻のミチコさんに、アメリカの方がより多くの成功の機会があると説得され、そのチャンスにかけてみることにしました。英語力には限界があったものの、オダさんは、園芸業で身を起こすことに成功しました。彼は、この仕事であれば、自分の能力で最大限の成功を手にすることができるだろうと考えたのです。最終的に、オダさんは自らの園芸場の経営を始め、事業を拡大し、その後、オレンジ郡で不動産開発業者として大成しました。オダ氏は、2016年12月14日、91歳で亡くなりました。(2016年12月)

ミツオ・イトウ

渡日の決意(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

サム・ナイトウ

第2次戦中の就職の困難さ(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)