ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/938/

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

(日本語) 私は、公開聴聞会にとても心を動かされました。私は証人委員として公聴会に関わるようになり、そこでの私の役割は、体験者を集め、彼らに証言してもらうことでした。そして公聴会に深く関わることになり、日系人に起こったことについて大勢の方の話を聞けば聞くほど、私はより深い関心を持つようになりました。彼らの話は、本当に私の感情を揺さぶるものでした。当時、積極的に証言書を書いてくれる人はたくさんいましたが、聴聞会に出て公の場で語ってくれる人を集めるのは、とても困難でした。

ようやく何名かが証言することになり、私たちはその準備のために何回も打ち合わせの為の会合を開きました。そして証言者の多くが、自分たちだけの模擬聴聞会をやろうと云うことなったので、私たちは会場にテレビモニターを持ち込み、精神科の看護師にも参加をお願いして、模擬公聴会に集まりました。証言時間は5分と決まっていたので、私たちはテレビモニターの前で証言の練習をしたのです。最初に集まったのは少人数でしたが、その内容は本当に感動的で、私自身も途中泣き崩れ、話をすることさえできなかったことを覚えています。


リドレス運動

日付: 1997年9月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ベッキー・フクダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

チエ・トミヒロ氏は、オレゴン州ポートランド出身です。第二次世界大戦が勃発したのは、彼女が16歳の時でした。トミヒロ氏の父は日系アメリカ人商工会議所の元会長だったため、彼はすぐにFBIに拘束されました。トミヒロ氏は、ポートランド集合センターに収容された後、アイダホ州ミニドカ収容所に送られました。その後、ニューメキシコ州の刑務所(司法省管轄の収容所)に3年間収監されていました。

戦後、再会を果たしたトミヒロ氏一家は、コロラド州デンバーに移り住み、その後イリノイ州シカゴに住居を構えました。彼女は、米国日系人市民協会(JACL)シカゴ支部のメンバーとして活躍しました。1981年、シカゴは、連邦政府のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)が行った、公開聴聞会の開催地の1つとなりました。シカゴ支部における補償委員会の委員長を務めたトミヒロ氏は、公聴会で戦時中の体験を語ってもらうべく地域の日系有志を集めました。1983年、CWRICは日系人の強制収容は軍事的必要性によって正当化できるものではなく、強制収容を引き起こしたのは、「人種的偏見、戦時ヒステリー、政治的指導者の失政」であった、と結論付けました。 (2008年4月15日)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

スー・エンブリー

考え方の変化(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

制度の中で(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

正義への戦い(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

フレッド・コレマツ

最終判決 (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

フレッド・コレマツ

不正を正す (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ピーター・アイロンズ

動かぬ証拠の発見 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ピーター・アイロンズ

コレマツ裁判の終結 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ピーター・アイロンズ

学ぶべき教訓 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

バート・ナカノ

補償運動への参加者の増加 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)