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笠戸丸移民
ヒベロン・プレットのねファセンダ・ドゥモントっていう耕地へ行った。それで、そこ行ったところが、コーヒーがなっていない。ね、大きな木で、あちらにこちらに少しね、木が大きくて、ほんのわずかしかなっとらんのじゃから。で、一生懸命、叩くと怒られるね。で、二日逃げた後は(?)、またパチパチパチパチやるんじゃ。そうしにゃ、コーヒーがないもんじゃから。そんなもんじゃった。
それでブラジルへ来た、カフェはないは、金はほんのわずかでね。そんなことで我々がいた耕地は日本人が一番多いかったんじゃから。それでリオの耕地間の通訳をお願いして、それからファセンデイロと談判してね。それから、そのあかつきはファセンデイロが認めたんじゃ。そんなもんだから、耕地からみな出ることになった。で、夜逃げじゃないんじゃ(笑)。公然と[耕地から出た]。
それで、今度は[耕地を]出たものは、2回に別れてて。それで鉄道工夫、その当時はノロエステのリンスの方が鉄道敷設しよったんじゃ。そこ行って働いた。それから、またある人はサントスで働きながら、日本船を待ってね。ま、いつか来るじゃろ言うんで。なかなか来やせん。それからアルゼンチンへ行った人もおるし。サンパウロ市に流れたものもおるし。こんな風に散らばった。第1回がそういう風やった。
わしの場合も、やはりそんな風でね。わしの場合は、移民会社のほうからずいぶん責められた。お前は6ヶ月の契約が済んでいないんじゃから、履行しなくちゃいかんから。で、わしは、「いやいやいやいや」反対した。そしたら、「借金が親元へ行くんじゃ」言うて。「あぁどうぞどうぞ」言って、受け取っておくれって(笑)。
日付:
場所: ブラジル
提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.
児玉良一(こだま・りょういち)氏は1895年7月、広島に生まれました。1908年、ブラジルへの初の日本人移民を載せた「笠戸丸」にて、単身ブラジルへ入国しました。契約移民としてやってきたコダマ氏は、モギアナ鉄道線沿いにあるデュモント農園で4年間働き、その後、日本人として初めてブラジルの運転免許を取得。以後、運転手として活躍しました。笠戸丸移民についての知識は豊富で、Presidente Prudente市では「生きた百科事典」として知られていました。広島県人会や地元の文化協会でも活躍していました。 (1998年)
渡米
一世実業家(1900-2005)
米国での最初の仕事
東京の会社が焼失
父方と母方の家族関係 (英語)
(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者
FOB - 新参者 (英語)
ハワイ生まれの在日日系人。YMCAの英語教師。
日本語とハワイ語によるハワイの耕地での伝統的な労働歌(ほれほれ節)
ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)
ハワイへ再移住 (英語)
日本人移民の衣服専門家・研究者
写真花嫁と「仮夫婦」 (英語)
渡日に対する決断に祖母の影響(英語)
日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)
日本の印象(英語)
「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)
雑誌社での就職(英語)
南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)
フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)
広島県の学校にいた帰米のクラスメート達(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
渡米の理由
太鼓奏者。南カリフォルニアで5つの太鼓グループを結成(1949-2019年)