ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/895/

世界を見るためにブラジルへ

日本を出たのはね、わしのお父さんは酢を作ってんですね。それで、その酢を持って、なんじゃ、お客さんのところへ行ってこいって。それで故郷を出て初めて、変わったとこへ行ったんじゃ。それで変わったとこへ行ったとこが、それがまぁ美しく見えるんじゃ。いやぁこんなに立派なところが、いいような感じがしてね。それからもう学校よりも、そのヴィアハ(旅行)するのが好きになってね。それが始まりじゃ。わしの。

一番最初はそんなに[移民は]なかったんじゃわ。北米だけでね。それで今度は北米ではイギリス人・・・アメリカ人が日本人いじめよったんじゃ。それで大人をいじめるわけにはいかんから、子供をいじめよったんじゃ。それはまぁ雑誌に書いてあったがね。それをわしは持っとったんじゃか、どっかへ貸したかなんかしてね。それでなんじゃね、日本政府が[北米への移民を]とめたんじゃ。それで今度はブラジル[への移民]が始まったんじゃ。ブラジルが始まったところで、今度は、そのcomeçou(始まった)家族がね、家族でなかったら来らんない。それでわしゃ一人だからそういうわけいかんもの。それでわしの隣の人は、なんじゃね、あの家族で、まぁブラジルへ来れたから。でわしも、そのお父さんがその人と一緒になりたかったらね、もう旅券出しとったもんだから。それでわしのお父さんもね、旅費ないから手伝って、始めは自分の旅費を払わにゃいかんもの。そして、日本語でなに、服、服(洋服)作ってくれてからね、きれ買ってね。初めてね。そんな風でブラジル来よった(笑)。


ブラジル 移住 (immigration) 移住 (migration)

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

児玉良一(こだま・りょういち)氏は1895年7月、広島に生まれました。1908年、ブラジルへの初の日本人移民を載せた「笠戸丸」にて、単身ブラジルへ入国しました。契約移民としてやってきたコダマ氏は、モギアナ鉄道線沿いにあるデュモント農園で4年間働き、その後、日本人として初めてブラジルの運転免許を取得。以後、運転手として活躍しました。笠戸丸移民についての知識は豊富で、Presidente Prudente市では「生きた百科事典」として知られていました。広島県人会や地元の文化協会でも活躍していました。 (1998年)

ロベルト・ヒロセ

ハーフ日系(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ロベルト・ヒロセ

ラテンアメリカにおける日系人の多様性(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

赤間みちへ

ブラジル移民の目的

一世。ブラジル女性教育の先駆者

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

外間良広

移住当初、言葉で苦労

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ルイス・ヤマダ

戦後、アルゼンチン定住を決意(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

戦後アルゼンチンに戻る(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

運の強い男(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)