ディスカバー・ニッケイ

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1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

(英語)カナダでの生活の方が楽ですよ。日本に比べてずっとね。日本は戦争に負けた後も、閉鎖的な社会のままだったんです。企業の体質は封建的で、建設業界は本当にそうでした。創設者か誰かの親戚ではないと、会社のトップになることはできないですし、カナダへ戻ってやり直す方がずっと楽だったんです。だからカナダに戻って来たのです。その決断は賢明だったと今でも思いますよ。もちろん、私が日本を去ってからは、日本産業は建て直しに乗り出し、今となっては繁栄を遂げています。私がもし日本に留まっていたらどうなっていたのだろうか、と考えますが、でも私が日本に行ったのは16歳の時で、カナダの習慣は持ち続けていましたし、私には日本でやっていくことは難しかったのです。カナダ社会やカナダでの生活に(再び)順応することが難しいとしても、それでもカナダに帰って人生をやり直したほうがきっと良いだろうと、私は判断したのです。


カナダ 移住 (immigration) 移住 (migration)

日付: 2005年10月29日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: ノーム・イブキ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館

語り手のプロフィール

ウィリアム(ビル)・タサブロウ・ハシズメ氏は1922年6月22日にブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。1939年、父を亡くした後、ビルは日本で教育を受けるため母と二人の妹とともに大阪へ移住しました。1941年の真珠湾攻撃ゆえに、ビルと彼の家族は日本に足止めされましたが、ビルは日本で学業を続け、1944年に神戸市立工業高等専門学校を卒業しました。その後まもなくして徴兵された彼は、日本帝国海軍に従軍し、1945年に海軍が解体されるまで士官を務めました。

戦後、ハシズメ氏はアメリカ軍の憲兵隊で通訳を務めました。カナダ政府は、真珠湾攻撃後日本に足止めされたり、1940年代後半に日本へ強制送還された日系カナダ人に対し、1950年代初期まで帰国を禁止していたため、ビルはカナダへ帰国することができませんでした。が、1952年カナダ政府より市民権を復権し、姉妹のいるトロントへ戻ってきました。

ハシズメ氏は55歳で技師としてひとり立ちしました。オンタリオのDepartment of Highways(高速課)で技師として雇用、65歳で退職しました。また、ブリティッシュコロンビア州ミッションの日系カナダ人史を研究し、本を執筆しました。現在、彼はトロントで活動的で健康な日々を送っています。(2006年8月23日)

Hachiro Ohtomo
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大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

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Akira Takashio
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高塩 明

ボーディングハウスでの荒れた生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

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Tom Yuki
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Kishi Bashi
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両親は新一世(英語)

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Michelle Yamashiro
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Mitsuye Yamada
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Mitsuye Yamada
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ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

月に一度入国管理局にチェックインする

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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