ディスカバー・ニッケイ

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真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

(英語)1941年12月7日、私は、サンフランシスコのエンジェル島米軍基地で兵役に就いていました。そして2月、厳密には1942年2月14日、私は陸軍から除隊させられました。そして日系人という理由で、軍事裁判所に移送されました。部隊指揮官からの手紙には、陸軍は日系人を軍に呼び戻すと書いてあり、また、指揮官は私を部隊に戻してもいいという意向でした。私は、除隊しなければならないことが、とても残念でした。すごくがっかりしていました。ご存知の通り、二世の中には内陸の駐屯地に移動した者もいたのですが、除隊しなければならない者もいて、私もその1人だったのです。

I*:釈放された後、どこへ行きましたか?

家へ帰りました。

I:自宅へ戻ったのですね。

ええ。

I:家はどんな様子でしたか?

その日は、父がFBIに連行された日でした。私が家に戻ったちょうどその日の朝、父はFBIによって連れて行かれました。何と言っていたか…敵性外国人、ですね。敵性外国人と分類され、最終的にはモンタナ州ミズーラへ連れて行かれました。

I:お母さんは怯えていましたか?

ええ。

かなり怯えていました。そしてすごく動揺していました。私は店のことはほとんど何もしていませんでしたが、その時はまだ店を開けていました。営業はしていたものの、私が帰宅したのはそんな最中だったので、結局私たちは店を売ることにしました。

*"I"はインタビュワー(アケミ・キクムラ・ヤノ)


差別 対人関係 アメリカ陸軍 第二次世界大戦

日付: 2005年12月5日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ、ソージン・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

イチロウ・ジョージ・アズマノは一世の両親の元、1918年オレゴン州ポートランドに生まれました。長男で妹が一人います。ジョージと言うミドルネームは、生後数年して彼の両親につけらたものです。ジョージは野球やバスケットボールなど日系アメリカ人のスポーツチームに所属し、1920年代後半から20年代にかけては日本語学校へ通いました。高校卒業後は、オレゴン大学にてビジネスを専攻しました。

1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃の際、ジョージはアメリカ陸軍に所属、サンフランシスコのエンジェル島に配属されていました。しかし、日系人であるという理由で陸軍から除隊を命じられ、ポートランドの家族の元へ戻ります。まもなくして家族とともにアイダホ州ミニドカ収容所へ行くことを余儀なくされますが、一時的に収容所を離れ、近くのテンサイ農場やオハイオ州デイトンの車のバッテリー工場などで働いていました。最終的に収容所から解放されたのは1944年10月のことで、アメリカ陸軍軍需品部で働くためユタ州へ移り住みました。

1946年、ジョージは家族とともにポートランドへ戻り、日本町にある保険会社に就職しました。1949年には自分の保険会社を創設。この保険会社が後のアズマノトラベルとなります。現在、アズマノトラベルは、日系アメリカ人を主な顧客としてもつ旅行会社として、アメリカ北西部で最も成功した評判のよい企業のひとつとして知られています。 (2006年10月26日)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ビンス・オオタ

東海岸とロサンゼルスの違い(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ポール・テラサキ

戦後シカゴでの体験(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

トシオ・イナハラ

4C-敵性外国人-に分類(英語)

血管外科医(1921年生)

バート・A・コバヤシ

本土におけるハワイの情報不足(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

ウィリアム・ホウリ

収容所へ戻ろうとした時(英語)

政治活動家(1927-2010)

ジーン・アクツ

地元新聞紙による日系人への誤った解釈に対しての十代の頃の記憶(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ジーン・アクツ

徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ジーン・アクツ

世論に影響を与えるメディアの役割(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジーン・アクツ

「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ロレイン・バンナイ

大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)

弁護士(1955年生)

ウィリアム・ホウリ

収容所の中での教育(英語)

政治活動家(1927-2010)