ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/419/

渡日の決意(英語)

(英語) 戦争が終わると、カナダ政府は、「(日系人は)ミッションにもバンクーバーにも戻ることは許されない。オンタリオに行くか、政府が無料で提供する船で日本へ帰るかのどちらかだ」と言うのです。私の父は、長年会っていない日本に住む息子に会いたい一心で日本行きを選びました。日本への帰国を選ぶ人はたくさんいましたよ。

I: あなたも一緒に行ったのですか?

一家全員で行きました。

I: 家族全員ですか?

ええ。私達一家が皆一緒に居られるように、全員で一緒に帰国したんです。1946年の事でした。

* “I”:インタビュワー(メアリー・イトウ)


カナダ 移住 (migration) 戦後 第二次世界大戦

日付: 2005年3月23日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: マリー・イトウ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト日系文化会館

語り手のプロフィール

ミツオ(ミツ)・イトウ氏は二世の日系カナダ人男性。1924年8月20日カナダのブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれました。ミッションで生まれ育った彼は、家の農場を手伝いながら学校へ通っていましたが、製材工場や砂糖大根農場で働くのをきっかけに家を出ます。戦後は日本へ移住し、(日本へ駐屯していた)英国軍隊で通訳として働き、その後結婚しました。1950年代にトロントへ戻り、二人の息子を育てました。現在はトロントの日系カナダ人のコミュニティーに積極的に活動し、慈善事業にも従事しています。(2005年3月23日)

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

飯野正子

日系人から学んだこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

渡伯初期の生活

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

木下正夫

『負け組み 』-日本敗戦認識運動

負け組みの主要メンバー

エミ・笠松

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者