https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1004/
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
(英語) 63名が公判を受け有罪宣告を受けた後、我々は上告した3人とコンタクトを取りました。上告してから2、3ヶ月程して判決が言い渡されましたが、有罪判決が覆ることはありませんでした。その時判事は、合衆国政府もまた過ちを犯しているということをほのめかす発言をしたのです。判事は、「誤りに誤りを重ねても正しくならない。」と言ったのですが、それは政府にもまた過失があったことを暗示していたのです。そして彼らはさらに上告したのですが、最高裁はそれを棄却しました。 彼らの上訴請求はその時点で行き詰まった訳です。
しかし、1947年にトルーマン大統領は、日系徴兵拒否者の市民権や参政権の全てを回復させ、全員を赦免にしました。とにかく徴兵拒否者たちの受刑態度が模範的だったという理由で、収容期間が短縮されたことを除けば、彼らは27、8ヶ月の全刑期を投獄されたことになります。本来であれば、刑期の3分の1に当たる日数の後、仮釈放されることになっているのですが、当時の戦時転住局(戦時中の日系アメリカ人強制退去・収容に携わった政府機関)のビル・メイヤーズ氏は、彼らを仮釈放させないよう刑務局に請願したのです。メイヤーズ氏は、徴兵拒否者が仮釈放されることで、強制収容所内での志気が下がることを恐れたのです。このことがあって徴兵拒否者は、模範囚として減刑された期間以外は、全刑期を刑務所の中で過ごしたのです。有罪宣告を言い渡された63名のうち、33名の若者がマクニール刑務所へ、年配者はカンザス州のレヴンワース連邦刑務所へ送られました。
日付: 2006年5月9日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: リサ・イタガキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
フランク・エミ氏は、1916年9月23日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼が家族と共に営んできたビジネスは、戦争により廃業に追い込まれ、エミ氏と妻、2人の子供はハートマウンテン強制収容所に送られました。 エミ氏は、多くの人々と共に日系アメリカ人強制収容の合憲性について声高に問いました。また、ハートマウンテン公平委員会の立ち上げに貢献し、徴兵拒否運動を起こし、政府が日系人に対して取った措置に抗議しました。当時、エミ氏には子供がいたため、徴兵対象者ではありませんでした。 公平委員会は、日系人がアメリカ市民権を取り戻し、家族が収容所から解放されれば、喜んで兵役を受け入れると論じました。合衆国政府は、エミ氏と他6名のリーダーを徴兵忌避の共謀罪で訴えました。エミ氏は、18か月投獄され、他86人は裁判を経て徴兵拒否の罪で投獄されました。 戦後、エミ氏や他の徴兵拒否者は、日系人リーダーや退役軍人からつまはじきにされていました。その扱いは、戦後40年経ち、賠償運動が高まり、不正に対して毅然と立ち向かった公平委員会への汚名が晴らされるまで続きました。 フランク・エミ氏は、2010年12月、94歳で亡くなりました。(2010年12月)
日系人としての誇り(スペイン語)
二世日系アルゼンチン人 (1929年生)
ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
同胞の援助と協力 (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
白人と同じ権利を求めて(英語)
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
真珠湾攻撃後のカリフォルニア州オーシャンサイドでの日系アメリカ人学生としての経験(英語)
アーティスト・劇作家。(1924 - 2018年)
徴兵拒否の決意(英語)
真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)
アズマノトラベル創設者
日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)
1942年10月の妹の死(英語)
徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)
徴兵忌避者(1925年生)
戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)
強制収容に対する日系アメリカ人の反応について(英語)
両親の強制収容について多くを知らぬまま成長 (英語)
弁護士 (1946年生)
強制収容所に送られる大勢の日系人を乗せた汽車との遭遇 (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)