ディスカバー・ニッケイ

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農工学校を通じてノウハウを次世代へ

あのね、まぁ学校で、もともと学校を始めたのはですね。私の50年間の、とにかくこれだけ儲かったと。これだけの自由ができるようになったと。その儲けばっかしではないんです。事業ができるようになったということがですね。なんかノウハウがあるはずだと。で、私も年ですから、もう何年かすりゃしなけりゃいかんと。さよならしてしまえばですね、土の中入ったらノウハウも何にも使えないと。その土の中に入る前にですね、できるだけ若い人、そのノウハウを伝えておきたいと。これがだいたい私願なんです。これから先、我々もう子供たちに任せてますから、子供たちが何しなきゃいけないですけどね。しかし、できるだけ新しい方面に研究していきたいと思っております。で、今までの機械じゃいけなくって、今度はもっと進歩した機械を作っていきたいと思っております。


農業 教育

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

西村俊治氏は、1932年21歳の時、日本の経済状況をみかね、新天地を求めブラジルへ移住を決意しました。移住当初は、持ち前の忍耐を持って耕地で働きました。まもなくして1年間学校へ通うのに十分な資金もたまり、サンパウロ市へ上京しました。その後、ブラジルの工場を転々とし、最終的にはポンペイアへ落ち着きました。

西村氏は、生活のためさまざまな職業を経験・挑戦してきました。農機具の特許取得がきっかけに、JACTOグループを創設しました。当時のブラジルは海外からの農機具に頼っていましたが、輸入品よりも質のよいものを提供しようと、農機具の開発に力を注いできました。JACTOグループがここまで大きくなったのは、ブラジルのおかげと、職業訓練学校を設立しました。農機具の開発だけでなく、それをうまく使える技術者を育てることが、国の発展の第一歩であるとし、農業専門家を育てるのに力を注いできました。(2007年6月22日)

ミツオ・イトウ

日本語学校 (英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

ミツオ・イトウ

アルベルタのテンサイ農場(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

日本の男女別教育(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

サム・ナイトウ

ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

田中誠一

日本の音楽教育(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

アリス・スミダ

仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)

アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)

アリス・スミダ

テンサイ農場で学んだ農作業(英語)

アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ビル・ハシズメ

日本の教育を受けさせるようにという父の遺言(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

バイロン・グレイサー

アートをサポートすることの重要性(英語)

イラストレーター、デザイナー

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ロレイン・バンナイ

大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)

弁護士(1955年生)

デール・ミナミ

カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)

弁護士 (1946年生)