https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/277/
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
(英語) 母は父に面会できるかどうか電話で確認して、父のところへ毎日通いました。父は日に日に衰えていったので、母は当局に父を一旦入院させて、良くなったら再び刑務所へ戻すよう頼んだんです。当局はそれを受け入れてくれました。周辺にはサンペドロ病院しかなくて、ウェイクアイランドで負傷した商船の船員たちが、みな一つの大きな部屋にいれられていて、父も同じ部屋に入れられたんです。ベッドの周りにはシーツが掛かってあるだけで、そこには「捕虜」と書いてあったんです。そして母が父を見舞いに行った時それを見て、負傷しているアメリカ人たちから父が殴られるんじゃないかと思ったそうです。だから母は父を個室に入れてくれるように病院に何度も頼み込んだんですよ。アメリカ人と一緒の大部屋では父は二度と生きて病院を出られないんじゃないか、と心配したんですね。
そして私たち兄妹も一度父に会うことができました。1月13日のことでした。当時、私の双子の兄(弟)はカリフォルニア大のバークレー校に通っていましたが、彼は戻るなりすぐに軍に入隊したんです。私にはとても変な感じがしましたよ。一方では父はスパイの容疑をかけられて刑務所に入っているのに、政府は兄(弟)をアメリカ軍に入隊させるなんて、本当におかしな話だと思いました。でも兄(弟)は軍服を手にすると、とても誇らしげだったんです。あれは私たちが父に会いに行った1月13日のことでした。父が彼の軍服姿を見るなり震えだしたんです。父はまた誰かが尋問しに来たと思ったんです。だから兄(弟)は「息子だよ。」と話しかけたんですが、父は信じませんでした。それで父があまりに怯えているのを見て私たちは、「パパはあんなに怖がってるんだし、もう行きましょう。」と言ったんです。
日付: 2003年6月16日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。
戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)
ポストンへの到着(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
第522野戦砲兵大隊とダッハウ強制収容所(英語)
(1918-2022年)ハパ第二次大戦退役軍人、パイロット
第442連隊戦闘団のハパ仲間(英語)
第442連隊戦闘団(英語)
ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト
日本での玻満子との出会い(英語)
アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)
天野氏と会う(英語)
結婚と帰国(英語)
日系アメリカ人弁護士として拒絶される(英語)
連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)
アジア系に対するステレオタイプ(英語)
俳優、活動家(1937年生)
仕事を探していた時に感じた差別 (英語)
日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)
イタリア人の気前のよさ(英語)
上司の招きでハーバード大学の教員に(英語)
サンフランシスコで受けた差別
横浜出身の戦争花嫁(1937年生)
マンザナーでの暴動(英語)
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
戦争中に失われなかったドーピーの貯金箱(英語)
第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)