ディスカバー・ニッケイ

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友好的だった戦後カリフォルニア州ロス・ガトス(英語)

(英語)サンノゼのロス・ガトスは日系人に対してずっと友好的で、偏見を感じたことはまったくありませんでした。収容所から解放された1944年、私たちはロス・ガトスにいました。戦争が終わったのは1945年でした。1945年に原爆が落とされました。1945年8月ですね。他でもない私たちの親戚、祖父の家族が広島にいたという事実が忘れられません。彼らの安否がとても心配でした。当時は日本からのニュースは当然なく、私たちは、特に祖父はとても心配していました。

1945年、終戦を迎えた日、祖母と私はサンノゼの繁華街で買い物をしていました。戦争が終わった時、天井から紙吹雪が降ってきました。それで私は終戦の日を覚えているんです。何が起きているのか私には分かりませんでしたが、祖母は分かっていました。私たちは自分たちの身に何が起こるのかは分からないまま、すぐに家に帰りました。私には終戦の日の記憶があります。友人たちはとても同情的で、私たちに対する敵意はありませんでした。サンノゼとロス・ガトスの人たちはとても親切で、私たちはとても幸運でした。


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日付: 2018年3月22日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1935年6月29日、カリフォルニア州サリナス生まれ。父親は戦前から農業ビジネスを共同経営し、戦時中アリゾナ州ポストンに強制収容されていた間も電話や電報を利用し、ビジネスパートナーに助けられながらビジネスを続けた。ポストンから戻った一家はカリフォルニア州ロス・ガトスに移住し、農業ビジネスを継続した。トムはサンタクララ大学に進学し、米軍に入隊後、軍需品担当将校としてフランスに駐留した。ユキ・ファームのマネージメントパートナーの仕事をトムに継がせるつもりだった父親は亡くなり、その時トムは企業の契約管理者の仕事をしていた。トムは、全米日系人博物館での理事など、これまで多くの団体で役員を務めてきた。(2018年12月)

ハワード・カキタ

原爆投下直後(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

不運だった親戚たち(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

アメリカで両親と再会する(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

妻に放射線障害を打ち明けたことと息子の癌(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士