ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1484/

結婚と家族(英語)

(英語)結婚は遅かったです。34歳の時でした。妻は私より若いのですが、私と結婚したいと思ってくれる人に巡り会うことができ、幸せでした。妻と出会うまでは長い道のりでしたが、彼女は「イエス」と言ってくれました。出会いから結婚まで、6ヵ月かからなかったと思います。アイリーンを失いたくなかったので、身を固めることにしました。結婚して本当に良かったです。56、7年になりますが、幸せです。彼女は今でも私を少しずつ変えようとしますが、結構成功していると思いますよ。

1952年に娘が生まれました。最初の子供です。初めて親になりました。最高に素晴らしい出来事でした。自分も神の世界の一員だと初めて思うことができました。世界を前進させることに貢献している、大勢の親たちの仲間入りができたと思いました。継続や永続性の輪に入り、神の世界の一部になれたと確かに感じることができました。1957年に息子のマシューが生まれたことも、良い経験になりました。とても良い気分でした。子供はもっと欲しかったのですが、妻は2人で十分という考えでした。幸せな結婚を望むなら、妻に反対するのではなく、言うことを聞くべきですね。そういうことも学びました。


家族 結婚

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)

ローズ・オチ

結婚50周年を迎えて(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

ローズ・オチ

父と玉(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

ハルノリ・オダ

アメリカ生活の始まり(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

ジョージ・タケイ

ジョージの母とブラッド(英語)

俳優、活動家(1937年生)

ウィリー・イトウ

両親(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ハワード・カキタ

妻に放射線障害を打ち明けたことと息子の癌(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。